キシキシぷらむ視界

だらだらと長いだけの日記と、ちょこちょこと創作メモのような何かがあるブログ。

のびしろ


はるか昔、小学校低学年のころ。
何かのおりに、担任の教師から、
「自分なりにがんばったからこれでもうおしまいと思わないで、あなたにはまだまだのびしろがあります。もうちょっとねばってみましょう」
といったコメントを頂戴したことがある。

私は母に問うた。
のびしろとは何かと。

母は暫く考え込んだ末に、答えた。
紙細工などでノリやボンドを塗り張り合わせる余白のことだと。

なるほど、なるほど。
紙だけでもノリだけでも決して出来上がりはしない。
両者があってはじめて成り立つ。
きちんと折るべきところを折り曲げ、塗るべき時に塗るという基礎的な概念や技術をまず大切にしなければいけない。
私なりのアレンジによる独創で自己満足するには10年はやいのだろう。
それに、ノリはねばねばする。
先生が言っているねばとは、そのことを暗に示しているのではないか。そうに違いない。
教科書どおりの作業は面倒だが地道にやることで実力がつき、精度や練度が増し、周囲も自分も納得する仕上がりに達する。
そうやってようやく自信を得るのだ。
王道こそ苦難と艱難の道のり。
足の裏にノリがついてしまって歩きづらい様な努力のあり方。それを避けてしまったら邪道にしかならないのだ。
石の上にも三年。
急がば回れ。
縁の下の力持ち。
これらことわざは、どれものびしろを想起させる知恵そのものではないか。
ノリが透明だったり白だったりするのも未来という希望の象徴なのではないか?
のびしろにも、しろ、という音が入っている。これが無関係であるわけがない。
明日から頑張ろう。まっさらな、澄んだこころで、ねばり強くやろう。


お母さん、それ、のびしろじゃない。
のりしろです。


そのことに気づいたのはつい最近。正確にはこの勘違いをふいに思い出したのが先月のことだった。
子どもの世界は主に家族と学校からもたらされる知識と情報でかたどられているとしても過言ではない。
それが何かの拍子で混沌に濁らされてしまう。そこからが子どもの人生のはじまりなのかもしれない。
少なくとも思考の飛躍っぷりに関してはその時点でほぼ完成していたと思うと、もはや自嘲しか出てこない。


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以前、ラオスで見つけた光る花。
たしかスーパームーンの日だったかな。


とある従者のはなし



これまで何人ものメイドにお世話になってきた。そこはかとなく感じる個性はあっても、やっぱりメイドにとってわたしの視界はしょせん職場。だいたい平均的。可もなく不可もなく。そうでなければいけないだろうし、いなくなってしまうし。だから一人ひとりのことを記憶してなんかいられない。
でも彼女だけは違ったなあ。
すごく印象に残っている。
何故って、彼女は全然メイドらしくなかったんだ。なんていうか、身近な存在感があって、それはそのまんま違和感につながってた。そうは言っても不快感はないよ。なかった。それだけでも不思議なのに、それ以上に彼女には巾着を作るっていう特技があってね。というか、それしか出来ないような人だったんだけど。できないというか、しないというか。どうだったのかな。
とにかく巾着、だと思うんだけど、それになりそうな道具や素材があると何でも巾着に仕立て上げてしまうんだよね。
正直なところ、見た目はあんまりよろしくない。彼女の容姿と同じ。ここだけの話。けど、その巾着が尋常じゃない。あつらえた服と同じで、目的にぴったりとはまる。職人魂すら感じる完成度。
改めて言うけど、一見アレなのに、シルクでもサテンでもなくてただの綿や麻の布でさっと縫っただけのものなのに、どこに出しても恥ずかしくない。しかも、何でも入ってしまうんだよね。もちろん、てのひらサイズのものに大鍋は入らない。
そういう意味じゃなくて、うーん……わたしが巾着に何を入れるか、入れたいか、入れるべきか、ちゃんと心得たうえで作ってある、と言えばいいかな。
その針仕事の場面を何度か見たんだけど、寸法とか全然はからないで糸を通して行くだけなの。目にも止まらぬスピードで。すごく大雑把。でも呼吸するみたいに自然。あれは無意識に近い。
彼女はわたしのことをちゃんと知ってたってことになるかな?それだったら、うさぎのワッペンだとかさ、飾りつけとかしてくれてもよさそうなんだけど。
そんなこと気にならないくらい完成されているから、そういえばそんなことも考えたことなかった。真似できないと思うなあ。あれは彼女にしか作れない。わたしがやってみようとしたら、まず絶対に綺麗にしようとしてしまうだろうし。
それが悪いということはない。
でも求めているものじゃない。
彼女にまた会いたいな。
今こそ作ってほしい。わたしのための巾着を。
どこに行ってしまったのかなあ。
何故、うちにいたのかな。
いつ、やめていったのかな。


こんな感じの夢を見た。
メイドさんにはそばかすがあった。髪の色は灰色になりかけの淡いブラウン。キャップの隙間から後れ毛が出ていた。
巾着のデザインは雑誌の付録の足元にも及ばない。なのに機能性は抜群。
目が覚めてから、これは何かのマンガの記憶かとしばらく考え込んだ。
私はどちらかというと詳細で筋の通った夢を見るほうだけれど、今回はやや度を越していた気がする。
しかしこのメイドさん、その役柄からしてどちらかと言えば針子さんではないかと思うのだが、夢の中では確かにメイドだった。何故かメイドだった。どうしてもメイドだった。

さて、この夢を分析してみるとしようではないか。
まず、似たような人が大勢いる中で特別な存在を求めている。本当に必要で、役立つものだけをもたらしてくれる、そんな人。ググったら巾着は選別のメタファー(?)らしい。真に大切なものを見極めたいという意識のあらわれ。
自分のことなのに、だからこそ分からなくなるもの。情けないことに他者の助力を望んでいる。しかし外見を取りつくろおうとする見栄がどうしようもなくつきまとっている。生活を脅かすほどに。
そのわりに開き直っている楽観的なありさまはいくら何でもそろそろ笑えない。
かつてそうでなかった時期の人間関係を思い出してみましょう。あのころ傍にいてくれて、今はいない、その人が実は私の大切な人なのだよなあ。

フロイトさんに任せたらすべては欲求不満の一言で片付けられるに違いない。おわり。



さんたすよん


たとえば、7を3と4の合計だと考えている節がある。
間違いではない。けれど少し遠まわりをしている。

説明をするのが難しいが、Aという作品をBの絵柄でしか思い描けないことがある。
例を出してみるとすると、ハイスクールオブザデッドの会話のシーンがデスノートのビジュアルで再生される。前田敦子がマリー・アントワネットだったり、しずかちゃんが博麗神社の巫女さんだったりする。夢のコラボと言えなくもないけれど違和感は絶大。
同じく、ターミネーターのことを考えているのに実際に脳裏で筋肉をフルに躍動させているのは誰あろうブルース・ウィリス。少しだけ、音楽とミスマッチではないか。

また、こればかりは他の人のことは分かりようがないことなので客観的にどうのと判断しづらいところではあるものの、どうも私は黙って思考している時に同時進行で文章化せずにいられない性質を備えているようだ。
漢字のひらきや、語句の言い換えや、改行のタイミングなどもそこはかとなく視野に入れている。
それを実際に紙などに書き留めることはしないまでも、頭蓋骨の奥の奥で文字が勝手に羅列されていく。

これらが単なる癖に過ぎないのか、それとも障害か何かなのか。ありていに言えばバカなのか。生活をする上ではたいして困ってもいない。
が、時たま、集中力の妨げになっているのではと懸念することもある。

そういう不穏を晴らすためというわけでもないが、昔、脳波の検査を受けたことがある。
結果として、まったく問題はないそうだ。
厳密に言うと脳に小さな空洞があり、そこに少し水が溜まった部位がある、が、まず大丈夫。とのこと。
そのまた昔行った知能検査に至っては通常の三倍の速さで満点をはじき出したらしい。
そうか。
じゃあやっぱりただのバカなのか。
それならそれで安心である。

それにしても、やっぱり7は3と4だと思うんだよなあ。
2と5より、4と3より、3と4なんだよなあ。
そういうことにこだわっていたから算数が苦手なのかなあ。
8を倍にしていくのは大好きなのだけれど、だから何だって話だよなあ。

まあ、とにかく、何だかんだと生きる力はある。
近頃それがちょっとはっきりした気がするので、これからも7は3と4だと信じ続けることにしよう。



書くこと読むこと聞くこと


気づけばもう二月。
今年はここの日記の更新頻度を上げたいなと漠然と願っていたが、具体的な努力なくして叶うことであるはずがなかった。
一方で手書きの日記はおおかた休みなく続いている。その日その日の何やかやを文章化する、その力をほとんどそちらに費やした一月だった、ということになる。
とにかく今は手で文字を書くことが本当に楽しい。もともと古き良きものが好きであるどころか、古きものは良きものとすら単純に捉えたがる節がある。

2015年が始まって以来、そうやって書くことだけでなく、読むことにおいても私にとってはなかなかの蜜月を過ごしている。
量ではなく、質に恵まれている。
正確に言うと年末年始がいろいろな意味で豊かな出会いにあふれていた。
各方面にむかって感謝しかない。
本の感想を書き上げたいと思いつつも、こころを動かされることのそのあまりの強さに迂闊にも臆してしまった。
同時に、不可侵の領域にひっそりしまっておきたいような、独占欲めいたものがあったことも否めない。
そのうちの1冊はまさに共有ということを主題に語られているというのに著者のおもいを踏みにじるかの如きこの体たらく。
だが、おかげで区切りをつけることが出来そうだ。
一度は必ず情けないことをしておかないと向くべき方角や時をどうにも決められない、この性分は今年も健在です。

書くことと読むこと、そして最近のひととの関わりの狭間で何を考えていたかというと、大体以下のありさま。
情報や数値や慣例や、躾に作法に育ちに、表面と内面とその異なり方の面白い多面性と、理解とか想像力とか思いやりとか、日本人特有の交流の仕方であるところの阿吽の呼吸や以心伝心、意見、主張、聞くこと、話すこと、関わること、それらすべてを内包する知性と呼ばれるものの正体とは、何か。
雑多すぎてまだうまく言葉にできやしないが、このもどかしい衝動があるだけで脳と心臓が辛うじて動いていることを実感できる。
あとは、得難いものは、はたして失い難いものなのか。
手に入れることがこんなにも簡単で、なくすのは惜しくて、日ごと止むことなくちらかっていく空間。
集束。分裂。彷徨。変遷。未完成。
キーワードだけ募るばかりで、どこまでも閉じこもっているだけの答え。それすらも、もしもあるとすれば、という仮定が先に立つことを忘れがちだ。
単語や言葉を並べてみると、何かを伝えようとするならとてつもない時間がかかることに改めて気づく。
声なく自問自答している一瞬の積み重ねに比べれば、文字数も集中力も注意力も本当にあらゆるものが膨大で、それなのに繊細さと緻密さを要求してくる。はてしのないしごとだと分かる。
それなのに何故、表現したいと思うのだろう。この駄文さえ表現と呼べ得るのならば、すべての創作活動はもはや神がかりに違いない。

もっと簡単に言うようにしてみよう。
そうなのかな?
なんでなのかな?
どうなるのかな?
そんな疑問が湧きあがることに夢中なのです。つまり、人間というものに。

これまでの私なりの経験や、意識的にせよ無意識にせよ、培ってきた何か。
それをそろそろ社会的なかたちに活かさなければならない。
大多数の人はそれが自然にできているのだと思う。
私はもうどうしてもそういったことが上手くできず、平均よりも何倍もの努力が必要になる。
やるしかない。とにかく、はじめることからはじめなければ。どんなに考えこんでも本当に賢くはなれはしない。実際に行動するまでは。

頭でっかちで終わりたくはない。
そう思えるだけでも私にしては大した進歩。
良質な読書というのも天からの贈りものである以上に、読み手としての私が少しずつ育っている証拠だろう。
そうなるように支えてくれた人、環境には言葉が見当たらないくらい感謝している。
そういえば良い読み手にきっと近しい、良い聞き手になること、これをここ数年、努めてはいたのだった。
良い話し手になる前に良い聞き手になっておくほうが効率的ではないか、学びやすいのではないか、得るものがとても多いのではないかとか、その逆はひょっとして不可能か、あるいはものすごく困難なのではとか、そんなこともここ二年ほどは改めて考えていた。
もともと人の話を聞くことが好きだ。恐らく長々と書き散らすことで自ら語ることの欲求を満たしている。何時間でもひたすら傾聴に徹したところでほとんど苦にならないのは、このだらだらとした書き癖のおかげだったのか。今、妙に納得している。

相変わらずとりとめがない。
何をどう書いて終わらせれば良いものか、毎回きまりごとのように迷う。
ということは、つまり、まだ終わらせる気がないのだろう。事実、率直に言うと終わらせたくない。
それは何だかとても私らしい気がしてならない。


追記
もう少し気温が上がったらガンジス川でバタフライ的なノリで、メコン川でクロールをしようと思っている。このゆるゆるとした生活に楽しみが出来た。

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点と点をゆるゆると


ゆるゆる歩きながら、シャワーに当たりながら、食事をしながら、妄想をする。
瞑想などとうそぶくまでもない。作業のかたわらに常にさまよう残像がある。
可能であればノートに書き留める。
点と点がどうにか波線ででもつながらないものかとペンの頭を噛む。あるいは手縫いの糸のあとのようにだってかまわない。
もつれているところまでは来ている。それは漠然と感じとれる。後はつたなくても、たぐれるようになるだけ。

突然、かなった。
朝目覚めて布団の中で微睡んでいる時のことであった。
どうでも良いが冬の朝、凍るような寒さが何より苦手だ。体温を纏った布団から出るただそれだけのことに毎朝たいへん苦しむ。布団を出るこの為だけに執事をひとり雇いたいほど。
そんな調子で毛布からひょっこり足先を出してみたり返したりもぞもぞと意味のない動きをしていたのに、突然、脳裏であらゆる断片が収束された。
動きをを止めて、しばらく呆然とした。

というわけで、後はその、そこそこまとまった妄想を文章にしていくだけ。
衝動、焦燥、高揚感、浮き足立ち、飛躍する。夢をみる気分はいつもふわふわと心地よい。でもここからがまた一苦労なんだよ、とも、冷静な部分で痛いほど理解している。

Twitterのフォロワーさんでも、創作の準備をしておられるとか、その概要をちらりとこぼして下さっているのを覗くともうじっとしていられなくなる。待てません!と編集担当者きどりで急かしたくなる(すみませんすみません。やりません)。
いま、自分自身に対しても少しだけそんな気分。

14歳のころの私よ。年明けにして君をおもう。
あのころの身のほど知らずで根拠のない自信と勢いと大胆さと、そして罪深いまでの貪欲さ。
どうか、完全にはなくしていないように。奥の底のほうでくすぶっているように。惰眠が暁をおぼえるように。
自己満足を肯定できるように。他の誰でもないこの私だけは、笑い飛ばして、おもしろがることが、どうかどうか、できるように。


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明日から本気出す。



お正月ももう期限が切れたかなと思わせてくれる1月4日。新年を口実に極限までだらけていた日々の余韻をせめて今夜は満喫したい。
一年の計は元旦にありとか申します。そんなに限られた時間の枠で残りの364日と半日が決まるなんて、大いに異議ありと潔く正々堂々、挙手したく存じます。
寝正月こそ日本の美徳。私はこの国に生まれ育った人間として、この懐の深い尊き文化をこそ謙虚ながらにも誇らしく、広く世界に知らしめたいところであります。
要は明日からは本気を出す。ちょうど月曜日がめぐってくるもの。このタイミングの良さにはちょっと脱帽する。ようし、気合を入れて稽古するぞ。

まあ、そんないい加減な私でも、やはり新しい年というものに対してそれなりの感慨はある。
まずおさらいとして去年はどんな年だったかなと回想しようとしたまでは良かった。未だ記憶に新しい昨年末の出来事が、2014年どころか我が人生のほとんどすべてを物語るようで、ひたすらにうなだれる羽目になった。ただでさえひとさまにまともに顔むけできやしない人間なのに更に輪をかけて恥の多い云々と深刻のうちにも陶酔気味に言い出しかねない状態に陥りかけ、早々に思考を放棄せざるを得なかった。
このことは意識のある時間帯は大体いつも頭のかたすみにあって折々に整理している段階なので、あまり真面目に構えないようにしている。まだ外気にさらさず、しめっぽい場所で大切に寝かせておきたい。

ということもあって、今年の抱負として、やりたいことよりも、やめたいことを並べてみようと思う。

そこで最初に頭に浮かんだことが、禁煙。煙草をやめます、禁煙します、と宣言して幾月経つことやら。今年こそがんばります。
禁酒はどうだろう。そこそこ強い方だと言われているが、ここ数ヶ月ほど ごくごくは飲んでいない。やめるよりも軽くたしなむぐらいはしたいところ。少なくとも強く意志をかためてやめますとは言えない現状だ。
ギャンブル……も、そもそもやっていない。だがギャンブラー的な生き方に憧れる14歳の精神は健在である。これはやめたくない。オールオアナッシングな生き様ではなく、14歳のこころをやめたくない。

そもそも、やめたくなることというものはどんな理由から発生するのだろう。
健康に差し障るから。自分の人生にはまだまだやるべきことがあるから。そのためには邪魔だから。
目的の阻害になるから。
もったいないから。
身の丈にあっていないから。
必要ないから。無駄だから。
もう卒業してもいい頃あいだから。
自分に向いていないことが分かったから。
やめた分で他のことができるようになるから。

大体こんなところだろうか。
最後のひとつ以外は消去法に近い気もする。
そして、これらの言い分のどれも私は好きではない。
妥当ではあるし正論だと納得はするが、私自身は意味がないことが山のように存在する日常にしあわせを感じる。
つまり、合理的視点からだと、無駄で、不必要で、年相応でなく、得手でもないこと。そういうことが何故か無性に愛おしい。

となると、何かをやめようと決意する時は、それなりに断腸の思いを伴うことになる。私にとっては大切なものを、文字どおり切り捨てるのだから。
そうした痛みのない、せめて少ない、やめたいこと。
はたして何があるだろうか?

いわゆる怠惰な生活ならやめられるかもしれない。ああ、これはやめたい。是非ともやめたい。やめられるものならば。

やめられないことではないはずだ。自分ひとりのことなのだから。やる気があるかないか、それだけだ。とてもとても単純なことだ。
やめられないに決まっていると言ってしまったらやめられないと決まってしまう。
自分には難しいなと思うことをひたすら努力し挑み続けてこそ、きちんとした大人なのだ。
結果は後からついてくる。悩んでいる暇も恐らく両立できる。やめられるかなとしょっちゅう不安になりながら、やめていく感覚を淡々と積み重ねるしかない。
が、ひとくちに怠惰といっても彩り豊かである。
私の場合すぐさま頭に浮かんだ部分は、運動量と食生活。
そういった部分で良くないと自覚のあることを、やめる。
たとえば、作業の如何に関わらず、日中、寝転がりっぱなしでいることをやめる。
寮の食事以外は自分の手の入っていない食事を、今の半分ほど、やめる。
売店に週3回以上は行かない。
休日の食事で市場への徒歩15分という遠征を忌避する怠惰っぷりを、やめる。

昨年にやめたこともある。
やめたというよりも、縮小したとする方が適切だろう。
それはネット上での発言の場だった。
現在は、ウェブで日本語の文章を綴る場をほぼこのブログに集約させている。あとはかろうじて詩と創作メモを置く個人HPに。
そうすることで得たものがあるとすれば、迷う時間と自分の中の違和感だろう。
これはmixiに、あれはFacebookに、と区分したり重複を自分に許したり、そういったことが私にはきゅうくつだった。それでも楽しければ続けただろうが、私はやめることを選んだ。
その道をどんどん進んでいくと、最後にはサイトをやめて、言葉として残したいものはペンと手帳やノートで充分という昔ながらの狭く小さく安全な領域に戻るのかもしれない。
が、それはきっともっと先の話。早くても5年後あたりではないかと踏んでいる。
とりあえず、このやめたことは、このままやめ続けていくつもりでいる。
自分の場所を選べるという恵みがどれほど大切か。年を経るごとに実感している。

自分の生きる時間に対する不敬な態度をやめる。
無理やりにまとめると、こういうことだろうか。 

実は長文書きをやめるというのも思いつきはしたけれど、弁明するよりいち早くきっぱりあきらめた。
書くことがうまくなりたいのならそれを目指すのも良いだろう。だが、私はこれに関しては上達よりも楽しんでやることを続けたい。もうちょっとこうなりたいということはあるけれど、やめたいものはそこにない。ひとつもない。

一応、やりたいこともこそこそと記しておく。
編み物、ビーズ細工、人形のししまるの服を作る、満足いく短編小説を書き上げる、稽古以外でも定期的かつ習慣的に動く、休日の朝ごはんをきちんと用意して食べる。
他にも色々あるけれど、やめたいこととの折りあいがつくのかとしばし一考。
2015年は、うまくいけばバランスのとれたターニングポイントになりそうだ。

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寮に隣接した小屋で、好きな音楽を流しながら飲むビールは良い。非常に良い。




あけましておめでとうございます、2015。

遠くで聞こえるラオス音楽の重低音、パチパチと上がる花火の音、夜独特のそこそこの静寂のなか、年越しを待った。
修練所に来て二度目の大みそか。

来年はどうだろう。
まだここにいるのだろうか。
こんな夜を過ごすのだろうか。
大勢だけど、ひとり。ひとりだけれど孤独ではない。さみしいこともあるけれどそれも悪くない。すべては自分の選択の末のことで、私はとても自由だ。
今の自分を適度に大切にして、人の記憶のうちにあることを喜び、感謝し、何らかのかたちで報いることができるようになっていけるのならば最善。

昨年は人とのつきあい方や距離感のようなものを理屈であれこれと考え、実際に試行錯誤する機会に不思議と恵まれた。
まだまだ足りないことばかりで、ちょっと油断するとあれよあれよと他人に負担や心労を強いてしまう。
両親の教えの最たるところが「人に迷惑をかけない」であったというのに、その正反対の道をゆく不出来な娘です。たいへん申し訳ない。
すったもんだのあげく、ややとりかえしのつかない事態になっても、実はそれほど罪悪感はない。それどころか、得るものの多さ、その多彩なことに感嘆を禁じ得ない。
もちろん、相応の対価は支払わなければならない。まったく失わずにということは不可能だろう。その覚悟だけはしっかりと常に自分に言い聞かせて、また不器用ながらにひとと関わっていく。エゴにまみれながら。
だからこそ、ありがとうと伝えたい。
かねてよりすみませんが口癖の私であったが、ここ半年はすみませんよりもありがとうを多く口にするよう心がけている。
その場にふさわしい言葉であれば、ありがとうを最優先。ごめんなさいとすみませんはその後、といっても臨機応変のこころも忘れずに。

いつもありがとうございます。
もろもろ滞っていて、ごめんなさい。
マイペースですみませんすみません。
けれど、とにかく、どうもありがとうございます。

どうか皆みなさま、良いお年をお迎えください。
あなたの願いが叶いますように。努力が実りますように。待ちびとが来ますように。一秒でも長く笑顔で過ごせますように。しあわせな気分でありますように。

昨年はおつきあい頂き、本当にありがとうございました。
今年もどうぞよろしくお願い致します。

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ラオスの初日の出と、るびぃちゃん。


私を月まで連れてって


to the moon and back なる表現があるらしい。月につれていって、戻ってこれるぐらい。ということだそうだ。
I love you to the moon and back、つまり、「愛する君のためなら月まで行って帰ってきてみせよう」、こんな具合だろうか。半年ほど真面目に勉強しただけだから英語に自信はないが。

不可能なほど大げさな言葉が相手に強く深い印象を残す。気持ちを伝えることはもとより、思い出してもらうにはうってつけのやり方だろう。

しかし月という存在が身近になればなるほど、このイディオムもすたれていくのではないだろうか。
かつては絶対に手の届かなかった月。
cry for the moon、「月をほしがって泣く」、最大級のないものねだりも、確かに自分のものにすることは今もって、そして永遠に不可能だろうが、その地に降り立つことは完全にあり得ないことでもなくなった。
有名な「あなたといると、月が綺麗に見えますね」という甘いせりふで I love you を訳した漱石も、月の表面の写真を目にすればさぞ安堵することだろう。遠い月でよかった、と。

世のことわりがわからぬうちはどこかつかみどころのない印象があり、目に見えても触れることは決してできず、太陽ほど頼りにもならず確かでもなく、美しいのにどこか不安にさせもする。
そんな月を心情に取りこもうとする人は、これから減っていくのだろうか。
fly me to the moon なんて甘え方があるなら、まだまだ大丈夫だろうか。
現実に月まで旅行できる時代になることを、こうなったら私はもう望まない。

ところで冒頭の to the moon and back だが、私が最初に見た文章では I love you to back and the moon になっていた。
これは故意の誤記なのか?
それともこの間違いが面白いということなのか?
訳すとしたらどうなる?
「月から戻ってきて、月に連れていってしまいたいよ」
とか?たぶん。
せめて back of the moon なら。かなり強引になるものの、こうはならないだろうか。
「月に連れ戻すために僕は君を愛したんだ」
一体どういう会話なのだろう。ここから広がる妄想、妄想、妄想。


まァた、ぷの字が悶々してるときた。


どういうしくみになっているのかは杳として知れないが、たまにじっと自分の中にこもりたくなることがある。
多くのことがひたすら滞るとき。
自分がこもるというより、耳に入る音すべてがこもってしまっているような感覚に近い。
そういう時私の場合は、外界との関係を冷静に切り離す。インプットの時期とアウトプットの季節のはざま、あるいは両方を重ねてみて、何かかたちにすることを求めず、ひたすらこねくりまわす。

私の父は、ものごとに理由と成果を必ず求める人だった。
柔道をするなら、警察官になるのか。
絵を書くなら、漫画家になるのか。
単に本を読んでいても、その意義を問われたり、しかもそれが正解でなければいけなかった。だが、父だって答えを知っていたわけではない。

それに気づいてしまってから、私は意味がないことに意味を見出そうと必死になった。価値がないことの価値。アンビバレンツというバランス。永遠に解けない真実への憧憬。

最終的には、「柔道は自分が満足いく動きができればそれがすべて」「夢を描くだけならタダ」「本なんて読んで楽しめればそれで良い」。
至極まっとうなところに辿り着くまで、とてつもない回り道をした。時間も体力も注ぎ込んだ。私は結局のところ父にそっくりだった。
しかもそれを認めたころには、家族とは疎遠になっていた。けれど私の疲弊は無駄ではなかった。そう思いたい。

そうしたアンチテーゼを中心に持ってくる癖がいまだ抜けない。何かのきっかけで、ちょっとだけ不快な静穏が訪れる。それも、しょっちゅう。すべてがどうでも良くなって放り出したい気持ちになる。
それでも、そこから戻らなかったことは一度もない。だから今となってはそういう流れ、そういう深みに抗わない。
視点を遊ばせるのにもってこいかもしれないとさえ、のんきに構えようと思っている。ただ、食べたり寝たり、適度な運動をしたり。最低限の生活を怠らないよう、ぎりぎりの危機感は持つようにしている。

さて、今回、主に自問を行ったり来たりしたこと。
世の中には、私が想像する以上にたくさんの人が音楽を作れるんだなあ(youtubeの関連の海を泳ぎつつ)。
絵で物語を展開させていく人は自分の体験からどこまで抜け出せるんだろう(Twitterや某イラスト投稿サイト、マンガに埋もれつつ)。
音の組み合わせは無限なのか。絵の線は人の数だけあるのか。言葉や文字ってそれらに比べるとずいぶん使い古しが早い気がするけど、そこはどうやって補っているんだろう(小説、映画を渡り歩きながら)。

創造と想像の世界が下敷きにあることを懸念されていたのかもしれない。たった今、ふっとそんな不器用な警鐘に思い当たった。
やっぱり私の場合は文章にしてみるといいんだろう。それが意味も価値もないことだとしても、いい。無償の愛に近い感覚をもって、私は常にこれを選んだきた。だから、これでいい。

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あ、そうそう。気分転換がてら髪を真っ黒にした。2015年は清純派でいく。2015年は清純派でいく。(大事なことなのでry