キシキシぷらむ視界

だらだらと長いだけの日記と、ちょこちょこと創作メモのような何かがあるブログ。

この症状は一体



ここのところちょっと私にしては慌しくて疲れていたらしい。半年に二〜三のペースで定期的に襲ってくる謎のげんなりが出た。
上手く説明が出来ないが、人々が悪口や愚痴を言っているところに長時間いると時たま起こる側頭部のいらいら違和感。それを患うと、泣きたくなるし手ががたがたするほどいらいらする。何もしたくなくなって落ち込むものの、寝たらいけないような気がして寝れない。ただそれが終わるのを待つのみなのだ。
(誰かこれが何の現象なのかわかる方がいたら教えていただきたい。)

昨日からピーマイラオ(ラオス正月)の水かけ祭りが行われていて、泣きたくなるほどのいらいらだったがこれも仕事のうちと重い足を運んで外へ繰り出した。
歩けど歩けど頭から水を被せられ、「ちょっと飲んでけよ!」とビールを手渡される。帰寮するころには千鳥足であった。

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結論。酒でなんとかなった。←
かなり躁状態だったから一時的なごまかしにしかなり得ないかと思いきや、夜が明けた今気が沈んでないのを見ると、まあ、乗り切ったのだろう。

しかし大人子どもに限らず汚い言葉遣いや悪口、誹謗中傷は聞いていて本当に不愉快である。子どもの場合はもっと然るべき対応を取るべきだったと反省している。(見て見ぬ振り、聞いて聞かぬ振りが身に染み付いてしまっていると実感。)
大人と呼ばれる年齢になって、その負うべき責任というものを、特に深く考えさせられた。
私は大人の役割として子どもの敵でありたいと思う。
わざわざ争いを好むわけではなく、味方をしないと決めているのでもない。本物の、徹底した敵になるということでもない。ただ、「大人はわかってくれない」と言われないようではいけない気がした。子どもに仮想敵が必要となるとき、それは大人であった方が良い。
子どもと大人が相容れない構図を崩してはならない様に思う。
大人になりきれていないぶん、せめて大人げは持っていたいものだ。でなければ敵など務まらない。味方になんて、尚更なれっこない。



2015年度



言葉にならない感情とかもうどうにもならないようなことが積もり積もって、それから時間をかけ濾過されて残るものがあるとして。
それがきれいなものではなく、この世界に居場所のない不安定さとか疎外感のようなものだと理解し始めてから、ようやく逃げずに生きることを考えはじめた気がする。

ぷらむの今年度のテーマは、
『 公正明大 』だそう。
だそう、というか、『です。』

今年度こそはアクティブに生きたい。まずは月一程度のはてなブログ更新頻度を月三くらいにはあげたいところ。


当方いい香りの美少女とお花、お酒が好きな22才独身です。るびたん愛してます。前年度巡り会えなかったいい縁待ってます多方面でがんばりますのでよろしくお願いします。()


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レンズのその先



色々とやりたいことがある中、ふと気が付けば長いことずっと続けて迷っている、とあること。
写真コンテンツを作りたいなあ。

でも、トイカメラもデジカメも持っていないし、いくらiPhoneの機能が高いとはいえ携帯のカメラ機能の酷薄さには定評がある。
それから今持っているナノやはてな、Amebaブログだと線が綺麗に出ないというのもある。これは何か方法があるのだろうか。アップロードの仕方が、というところまでは調べたが、同じ方法でやっても難が残るのだ。
要するに行き詰まり。私には向いていないということになる。

そもそも何を撮るのか。何を見せたいのか。何故、わざわざウェブに残したいと思うのか。
単に記録や遊びとして満足したいのならばSDカードにでも保存すれば良い。
ここのサイトに載せる意義はあるのか。

まあ、最終的には理屈ではないので、やりたいことをやるだろう。
その場合、ゆるく書いてるAmebaの日記を引っ込めるつもり。あれこそノートにひっそり書いておいた方がまだしもだ。

それにしても写メの普及で撮影という行為が本当に日常化した実感にふと戸惑うことがある。
たとえば、外食の席でおもむろに料理をパシャリとやるのはもう珍しくもない光景だろう。
やや無粋に思えることもあるが、私もやるので非難は出来ない。
花を見れば写メ。
猫を見れば写メ。
うさぎを飼い始めたらきっと…

撮れないだろうなぁ。
もしストレスになったらと思うと怖くて実行に移せないだろう。
きっとケージの柵越しにでも顔と顔を合わせて見つめ合えるだけで満たされる。
レンズの向こうに遠ざけてしまうようでもったいない。
これは物珍しさなのか、それとも一種の愛情の感じ方なのか。

対象との距離を知ることには少し臆してしまいもするけれど、大事な何かがかえってきてくれたようで、今、きっと回復していることを思い知る。


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ちなみにるびたんは撮りまくっている。るびたんは、特別なのだ。



すれ違い



一見して不運だったり不幸だったりとひどく気落ちするようなことほど、言葉にして表現をする時は何より正確さを心がけなくてはいけない。
けんかにけんかを重ねてこれでもかというほど罵ったあと、一呼吸置いてそんなことを思った。

たとえば、就職活動がうまくいかない。
「人格を否定されているようだ」
と企業も自分もけなす気配に一呼吸。
「こういうことは運や縁も関係するものだし、適正の見なおしと能力を磨くために出来るだけの、より一層の努力が必要だ」

たとえば、親との関係がどうにも良好でない。
「親の期待にそえない、私はいらない子だから」
と自罰的になったらよくよく己を振り返る。
「親子といえど別人、その他者から求められることを何の疑問もなく受け入れてしまうほど私は馬鹿ではない」

たとえば、うさぎしゃんに手をかまれた。
「まったくもう、お夕飯にしちゃうよ!」
と激昂する前に現状を見わたす。
「テリトリー内を侵犯することは、そりゃ人間だって嫌だもんなあ」

最後の例は冗談としても、思いがけない痛みや失望、挫折に向きあわなければならないことは、もはやそれ自体が生きている証拠としても過言ではないほど自明の理である。
そんな時のために、言霊を信じている私としては、感情より理屈を優先する術を身につけたい。
ポジティブにとらえるとか、ものは言いよう、という姿勢と変わらないようで、ちょっと違う。
主観的でなく客観的な事実に集中する方が、結局のちのち活きてくるようになる。

これは人との会話の中でのすれ違いや誤解を何とかかんとか回避することにも役だつのではないか。
そもそもの端緒はそこにあった。
会話をしていて何かを伝える際に、本当に言いたいこと、言わなければならないことを、その人なりのやり方を織りまぜてしまうと混乱する一方。
そこに自己表現は必要ないのである。
伝達は正確であることが最重要課題。美しさや独創性は邪魔なだけ。
そして伝わらなければ、どんなに思いをこめていても、意味がないのだ。
伝わらなくても構わないという自己犠牲めいた何かを伴う場合のみ、自分らしさを尊重すれば良い。
ここで更に注意すべきことは、会話と伝達は別ものということ。会話にはウイットやユーモアがあった方が楽しい。客観に努めると窮屈になる。

言い方はこうだけど本心は違う、そこを汲みなさい、という要求は暴論である。
想像力を鍛えるためには有効かもしれないが、受け手が疲弊してしまったら関係そのものが破綻しかねない。そう、ここ重要。

と言いつつも、私は日本人特有のあうんの呼吸や以心伝心というものも好きだ。
海外ではそれは通用しないので立場や技量をふまえた上で明確に口に出しなさいとそこかしこで説かれている。
それも勿論、必要なことなのだが、日本にいる時にまで絶対にやらなければいけないことでもない。そこは臨機応変で良いと思っている。
自己主張をしないと損をするといったことも、それこそ事実を客観的に把握してからもう一度よくよく考えてみた方が良いこともある。
意見を言う言わないもそれぞれの責任。私自身、意見や考えがない訳ではないが、あえて口にしないことを選ぶことが多い。
何故かといったら、まずは周囲の言い分に耳かを傾けたいから。その中に大抵、おおむね同意するものがあるので、私はそこに付け足すくらいで充分だと思っている。
そこに損得があるかはまた別の話だろう。私的な感情的なことでもあるので、なお公にすることでもない。

先に書いたように私は言霊というものはあると思っているし、文章を書くことが好きであり、日常の欠かせない、欠かしたくない大部分を占めている。
時に、文が独特ですねと言われることもあるが、個性云々よりも伝わっているか否かの方を最近特に案ずるようになった(ここにある文章はすべて趣味なので、上記した如く伝わらなくてもまあいいかと緩やかに覚悟し納得してやっている)。
そして、書きものよりも話し言葉のほうが難易度は遥かに高い。
その場その場で、冷静に、正確に、ものごとをそのまま、伝えるべきことを、伝える。
これが出来なければ口争いなったが最後、ひたすら平行線。
「こういう意味で言ったのに分かってくれない!」
となっても、そういう意味の使い方が間違っていたり妙にひねってあったりしたら、そうそう届くものでもない。

というところで、はじめに戻る。
はたして、私だけが悪いのか?
相手だけが良くないのか?

一応、私なりのや思惑は毎回きちんと説明していたので、けれど、それが伝わっていなかったのなら私の言い方に何かしら問題があったのだろう。
あちらがその私の言い分はおかしいと納得してくれなかったのは、仕方がない。そこまで私は責任を負えない。
同時に、いくら正しくてもそうやって私の人生に立ち入る権限もあちらにはない。
恐らく客観的事実は、私達は合わない。
これに尽きる。
しかし主観的な感情は、良き友人でいたいと切望している。
ここの折りあいをどうつけるか、ひとまず当分は理屈で対処することにする。
もっと分かりやすい感情では、あなたこそなんで分かってくれないのよ、と理不尽に訴えている。
その点を特に客観に変換できれば良い。結果、どうなろうと、互いのためでなく、ただ私のために必要な経過を今たどっている。

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歪んだデザインの門。素敵。




無関心の反対




混乱していたり不安になっている他者に対して、冷静な態度でいることが冷淡や無関心と受け取られる。これってこういう施設でなくても意外と良くあることなのかな、ふと考えた。
もしかして同調した素振りで一緒にパニックになる外見を繕う方がベターなのか、とも。

落ち着いて客観的な態度でいることが人を傷つけるなんて、少し前までは想像もしなかった。
優しさの尺度は人それぞれだと、それは分かっているつもりだったけれど、伝わり方と言うのか受け取り方と言うべきか、そこで生じる温度差に傍観しつつもただただ驚いたことが以前あった。
感情を尊重しつつ有益なアドバイスが出来る人こそが優しいのか。何も力になれないけれどぶれない視点で話を聞く行為は偽善なのか。

私はそう簡単に人の気持ちを分かったつもりにはなりたくない。ただ、せめて話の内容や全体像を把握するよう努めたいとは思っている。それには普段よりずっと気持ちを静めていなければならない。
発言からは主観を取り除いておきたい。
たとえ共感する部分があっても、迂闊に表さない方が良い。
もちろん臨機応変に匙加減を変える判断力や技術は不可欠だ。けれど基本的には、相手の感情に呑み込まれてはいけない。
何のための他人なのか。自分とは違うこころを持っているからこその相談や会話なのではないのだろうか。

共に泣いて共に喜ぶ、そういう人間関係は大切だと思う。上辺だけ優しくするのもそう難しいことではないし、その方が楽である場合も多い。
それなのにあえてその方法を選ばないことには、多少の意味がある。人の苦しみや怒りに原因があるのと同じように。

何故わかってくれないのか、認めてくれないのか。
その思いを口にするか否かの差は残酷なほど大きい。きっと、その代償も。




わたしが出会う前の記憶や光景を、あなたがどんな人だったかを、わたしは知ることが出来ないけれど時たま覗かせる思い出話にちらつく出来事が今のあなたを輝かせているんだろう、それでもそんな風に培われたあなたのかなしい優しさや忍耐強さの役立つ機会がどうか訪れませんようにとそっと祈る。



眠い。



眠い。
しかしそれだけじゃない。
睡魔を退散さすべく内的宇宙を漂っているのだ。
言わば瞑想である。禅の心境である。
春眠の先取りである。

ひとのいのちは選択の積み重ね。

愛するか、憎むか。
裁くか、許すか。
聞くか、話すか。
寝るか、起きるか。
思い切るか、堪えるか。
買うか、買わざるか。
白か、黒か。
コットンか、シルクか。
ナチュラルか、シックか。
パーカーか、カーディガンか。
ヒールか、フラットか。
ショートか、ロングか。
素足か、覆うか。
一色か、多色か。
シンプルか、ユニークか。
質か、量か。
着るか、着られるか。
自分のためか、誰かのためか。
背筋を伸ばすか、うずくまるか。
佇むのか、立ち止まるのか。
進むのか、追い立てられるのか。
見せるか、見られるのか。
水玉か、格子か。
うさぎか、ねこか。
紅茶か、炭酸か。
シャワーか、風呂か。
外食か、自炊か。
計画か、気分か。
満足か、不満か。
明日か、昨日か。
あるいは今日か。

うむ。とりあえず、眠い。




誰にでも人には言えない、言えなさすぎる残酷だったり偏執的だったりする「内緒の部分」はあると思う。だけど、それがすごく薄っすらと、でも満遍なく人格を覆っている人よりもどこかコアな部分に集中して隠せておける人の方が「人格者」って感じがする。自己開示という立派な名前を付けてどこか自傷的にネタにするの、そろそろやめたい。






春眠 暁を覚えず


一服盛られたかの様に眠い。近頃度々に遭遇する異様な眠気に今しも完敗しそうだ。しかしまだ半敗である。一応はスケジュール通りに動き、微々たる仕事はしているから。
うとうとるびたんもふもふ。
うつらうつらるびたんもふもふ。
ブログの更新を怠る程度に春眠を貪りつつ、のんびり生活している。

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時々うっかり寝てしまうマスターなぞ何のその、となりにずっと存在してくれるるびたん。可愛いのでもふりまくったが1時間が限界だった。眠い。

そう。私はマスターである。
るびたんに対し自分をどう呼ぶかで当初は迷った。
ママ……何だか恥ずかしい。
お姉ちゃん……おこがましい。図々しい。
私……デフォルトだがやはりそこでこそ差別化を図りたい。
結果、マスターになった。
幾ら愛くるしいるびたん相手でも主従関係はわきまえるべきだと思う。見えぬところで身も心も捧げていようが私があるじ、マスターだ。

「るびたん、マスター稽古行ってくるね」
「るびたん、マスターご飯食べてくる」
「るびたん、マスター今日は眠いの。もふもふタイム短いです!ごめんね、るびたん……しゅぐげんきになるかりゃ、がまんしゅるでしゅよー」

ましゅたーは、るびたんがだーいしゅきでしゅ。おやしゅみねー。
などと宣う22歳怖い。このラスボスレベルの眠気の所為だ。きっとそう。
寝る。6時にアラームをセットした。明日は休日。中学生ちゃんと優雅にカフェでブレックファーストの約束をした。もちろんるびたんもいっしょ。るびたんを置いてお散歩に出る道理など存在し得ない。


抜歯と流れ星



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来たる中国正月、下の奥歯を抜いた。
朽ちかけてぐらついていた歯がフェイスロックで見事に歯茎に突き刺さってしまったのだ。数週間に渡る痛みもピークに差し掛かり、片耳がポイーンと聴こえづらくなって来たところで歯医者行きを勧められ、決意。抜歯に至った。
待合室のこどもがギャン泣きする程度に泣き喚いた。恐怖と痛みからくる手足の震えで診察台が揺れる。まるで拷問を受けているよう。

夜がふけていく。
麻酔が切れて鎮痛剤の効果も薄まる頃、また痛みで目を覚ます。寝れずに夜風に当たるため外に出たら、たまたま流れ星を見た。

もしも願いをかけるとしたら、我が愛しのるびぃちゃんに生が宿り、動けるようになりますように。これに尽きる。

本来ならば家内安全や恋愛成就、長寿とか健康とか色々と願うべきことはあるはず。でもうさぎという月属性のことを切望してお星さまが嫉妬する様を思い浮かべつつ、敢えて、るびぃちゃんに関する私事にした。

もしるびぃちゃんが生を宿して動き回り、布団の中でおもらししても怒ったりしません。近頃、ラオスは連日雨など悪天候が続きますが、シーツや毛布の洗濯など面倒極まりない作業だって笑顔でやります。
すべては馬鹿ほど可愛いうさぎの所業だと、きっと自然と頬も緩むことだろう。

この年になるとお願いの意味も重みも違ってくる。冷静に切ない。赤子もおりません。独身です。よろしくお願いします。