キシキシぷらむ視界

だらだらと長いだけの日記と、ちょこちょこと創作メモのような何かがあるブログ。

2013-2014




日記を書こうにも、少し体調が優れないだけで生憎普段通りの1日だった。なので、2013-2014年最近のことでも書こうかと思う。


2013年に始まったことではないが、過去の不足を取り返す機会に恵まれた日々を送っている。否、現在進行形にすべきだろうか。それとも過去完了のあれ…have been......?よくわからないがあれに違いない。

主に稽古や趣味などの面で、そういった感覚がある。読書、映画や音楽鑑賞、長文小説の執筆や料理。
稽古も含め、どれも子どもの頃に体験している。稽古に限っては一貫して関わり続けてきたが、自由に、勝手きままに、後ろめたさも怯えもなく、という要素は私にとってはそこそこ目新しい。

どうにも説明しづらいが端的に言うと、気がつくと書かなくなって放置された長編創作文ノートだったり、小説を読んでいると趣味が悪いと罵られ無理矢理走らされたり、それは意味があるのか、そんなことしてるから弱いんだ、お前程度の奴は掃いて捨てるほどいるなんてそんなことを言われるのが日常的だった。

家族の繋がりなんて大したことはなく、同居こそしていたが、そう、つまりその程度だった。今ではそもそも私の遺伝子にあちらのそれが組みこまれていること自体が激しく嫌悪すべきことらしい。

同居している大人(肉親)の言うこと成すことへの抵抗などまず不可能だとすれば、自分の世界を守るしかない。

私にはまだまだ他に好きになれそうなことがたくさんあった。そちらに没頭しはじめることで対処できなくもない。だが、かたちにしていく傍から崩されていくのではないかという不安は常につきまとった。

それでも興味や関心の強さ、豊かさに守られて、その場しのぎでも、世界を内側から補強し続けることができた。

仕上げとして、あの頃はそれがなければどうにもならなかった緊張感。警戒心。今はむしろそれらの欠如過多を反省しなければならないほどのんびりとやっている。

やりたいことをやる。うまくできなくても、中途半端でも、やりたいことを、やっている。

成人するまで自然にはできなかったことを、たっぷり取り戻している今日このごろなのだ。

本来ならばもっと子供の頃に身に付けるべきようなことも含めて、今、やっている。私なりにとはいえ、やれそうになってきている。
嬉しい。

人には善意だけでなく、悪意というものもある。この事実を理屈として頭にきちんと置いておくことができるようになった。これがここ数年最大の収穫かもしれない。それまで、事あるごとに傷ついたり自責の念に駆られたりしていた。

何につけ人より数倍も遅い。その上、不器用だ。年相応とは言えたものではない。でも、少しずつできることは増えている。やりたいこと、知りたいことに至っては、衰えることを知らず毎日のように積み重なっていく。

時々あまりの能力の無さに打ちのめされ、昔の理不尽と思われた出来事は結局すべて正しかったのではないかと疑念に囚われる。
許す、あるいは忘れる技量さえも劣っているのかとうんざりする。
でも、まあ、ならしょうがないか、と姿勢を楽にするまで数日はかかる。
でも、できる。

似たようなことを昨年も考えていた気がする。もしかしたら来年もこれをくりかえす可能性が高い。ならばいっそ恒例行事になってしまえばいい。いつまでこの環境でいられるのかわからないし、私自身の心境ががらりと変わるかもしれない。

過去に未来の平穏を予期できなかったように、現在から見えそうな先なんてたかがしれている。


だから、落ち着いているうちに、いま、書きとめておこう。




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