キシキシぷらむ視界

だらだらと長いだけの日記と、ちょこちょこと創作メモのような何かがあるブログ。

まァた、ぷの字が悶々してるときた。


どういうしくみになっているのかは杳として知れないが、たまにじっと自分の中にこもりたくなることがある。
多くのことがひたすら滞るとき。
自分がこもるというより、耳に入る音すべてがこもってしまっているような感覚に近い。
そういう時私の場合は、外界との関係を冷静に切り離す。インプットの時期とアウトプットの季節のはざま、あるいは両方を重ねてみて、何かかたちにすることを求めず、ひたすらこねくりまわす。

私の父は、ものごとに理由と成果を必ず求める人だった。
柔道をするなら、警察官になるのか。
絵を書くなら、漫画家になるのか。
単に本を読んでいても、その意義を問われたり、しかもそれが正解でなければいけなかった。だが、父だって答えを知っていたわけではない。

それに気づいてしまってから、私は意味がないことに意味を見出そうと必死になった。価値がないことの価値。アンビバレンツというバランス。永遠に解けない真実への憧憬。

最終的には、「柔道は自分が満足いく動きができればそれがすべて」「夢を描くだけならタダ」「本なんて読んで楽しめればそれで良い」。
至極まっとうなところに辿り着くまで、とてつもない回り道をした。時間も体力も注ぎ込んだ。私は結局のところ父にそっくりだった。
しかもそれを認めたころには、家族とは疎遠になっていた。けれど私の疲弊は無駄ではなかった。そう思いたい。

そうしたアンチテーゼを中心に持ってくる癖がいまだ抜けない。何かのきっかけで、ちょっとだけ不快な静穏が訪れる。それも、しょっちゅう。すべてがどうでも良くなって放り出したい気持ちになる。
それでも、そこから戻らなかったことは一度もない。だから今となってはそういう流れ、そういう深みに抗わない。
視点を遊ばせるのにもってこいかもしれないとさえ、のんきに構えようと思っている。ただ、食べたり寝たり、適度な運動をしたり。最低限の生活を怠らないよう、ぎりぎりの危機感は持つようにしている。

さて、今回、主に自問を行ったり来たりしたこと。
世の中には、私が想像する以上にたくさんの人が音楽を作れるんだなあ(youtubeの関連の海を泳ぎつつ)。
絵で物語を展開させていく人は自分の体験からどこまで抜け出せるんだろう(Twitterや某イラスト投稿サイト、マンガに埋もれつつ)。
音の組み合わせは無限なのか。絵の線は人の数だけあるのか。言葉や文字ってそれらに比べるとずいぶん使い古しが早い気がするけど、そこはどうやって補っているんだろう(小説、映画を渡り歩きながら)。

創造と想像の世界が下敷きにあることを懸念されていたのかもしれない。たった今、ふっとそんな不器用な警鐘に思い当たった。
やっぱり私の場合は文章にしてみるといいんだろう。それが意味も価値もないことだとしても、いい。無償の愛に近い感覚をもって、私は常にこれを選んだきた。だから、これでいい。

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あ、そうそう。気分転換がてら髪を真っ黒にした。2015年は清純派でいく。2015年は清純派でいく。(大事なことなのでry