キシキシぷらむ視界

だらだらと長いだけの日記と、ちょこちょこと創作メモのような何かがあるブログ。

のびしろ


はるか昔、小学校低学年のころ。
何かのおりに、担任の教師から、
「自分なりにがんばったからこれでもうおしまいと思わないで、あなたにはまだまだのびしろがあります。もうちょっとねばってみましょう」
といったコメントを頂戴したことがある。

私は母に問うた。
のびしろとは何かと。

母は暫く考え込んだ末に、答えた。
紙細工などでノリやボンドを塗り張り合わせる余白のことだと。

なるほど、なるほど。
紙だけでもノリだけでも決して出来上がりはしない。
両者があってはじめて成り立つ。
きちんと折るべきところを折り曲げ、塗るべき時に塗るという基礎的な概念や技術をまず大切にしなければいけない。
私なりのアレンジによる独創で自己満足するには10年はやいのだろう。
それに、ノリはねばねばする。
先生が言っているねばとは、そのことを暗に示しているのではないか。そうに違いない。
教科書どおりの作業は面倒だが地道にやることで実力がつき、精度や練度が増し、周囲も自分も納得する仕上がりに達する。
そうやってようやく自信を得るのだ。
王道こそ苦難と艱難の道のり。
足の裏にノリがついてしまって歩きづらい様な努力のあり方。それを避けてしまったら邪道にしかならないのだ。
石の上にも三年。
急がば回れ。
縁の下の力持ち。
これらことわざは、どれものびしろを想起させる知恵そのものではないか。
ノリが透明だったり白だったりするのも未来という希望の象徴なのではないか?
のびしろにも、しろ、という音が入っている。これが無関係であるわけがない。
明日から頑張ろう。まっさらな、澄んだこころで、ねばり強くやろう。


お母さん、それ、のびしろじゃない。
のりしろです。


そのことに気づいたのはつい最近。正確にはこの勘違いをふいに思い出したのが先月のことだった。
子どもの世界は主に家族と学校からもたらされる知識と情報でかたどられているとしても過言ではない。
それが何かの拍子で混沌に濁らされてしまう。そこからが子どもの人生のはじまりなのかもしれない。
少なくとも思考の飛躍っぷりに関してはその時点でほぼ完成していたと思うと、もはや自嘲しか出てこない。


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以前、ラオスで見つけた光る花。
たしかスーパームーンの日だったかな。