キシキシぷらむ視界

だらだらと長いだけの日記と、ちょこちょこと創作メモのような何かがあるブログ。

老夫婦と人形



ある女の子が、母親とレストランに入った。食事をしている内に店内は混雑して来た。
そこへウェイターがやって来て、ここは4人席だから、2名のお客様と相席をお願いしたいとの申し出を受けた。
当然の様に快諾する母子。その2人と席を同じくしたのは老年の紳士とご婦人だった。軽い挨拶を交わしてからと特にコミュニケーションを取るでもなく、母子の食事は黙々と進み、どうやら夫婦らしい彼らはメニューを一瞥してオーダーに及んだ。
その間、女の子の視界にちらほらと入って来たのは、老婦人の膝に乗せられた、一体の古ぼけた人形だった。幼児ほどの大きさはあろうか。リカちゃんの比ではない。まるで本物の子どもの様だ。
そして暫くして、老夫婦の元へ食事の皿が運ばれて来た。婦人の前にシチューが置かれた。彼女は囁く声音でいただきますと言うと、おもむろにスプーンでシチューを掬い、人形の口元へと運んだ。
女の子の母親もその様子に気付かない筈は無いのだが、何も言わず食事を続けている。老紳士も自分の食事に専念して、ただ時折、婦人の方に穏やかな目を向けている。女の子の視野の隅を老婦人の動きが掠めるが、目線は残った料理にだけ注いでいた。
厳粛でもなく、しかし異様という訳でもなく、ひたすら淡々と食事は進み、やがて母子の方が一時早くフォークとナイフをテーブルに置いた。そのまま一礼してテーブルを、そしてレストランを後にした。
母は何も言わない。女の子も無言である。それでも心の中で思った。誰も何も言わなくて、それで良かったのだと。

私がこの話をある本で読んだのは、小学3年生の頃。と言う事は、女の子の年齢もそれ位に設定されていたのだろう。少なくとも私の中ではそうした認識だった。
この世には言葉にならない感情と、現実が、そして大人にはそれらから成る戻れない過去があるのだと、そこはかとなく知った。
そして人との関わりの根幹にあるのは、想像力ではないだろうかと朧ろに感じた。直接の会話も勿論大事だが、全ての人と全てを話し合うのは、事実上不可能だろう。思いやりと言うほど優しくはないし、推測と呼ぶには根拠が薄い。状況によっては偽善で、欺瞞ですらある。だが、想像力は、察するという力は、意外と強いのではないだろうか。相手の立場から物事を見れなくても、それは仕方が無い。でもせめて、自分が知り得ない何かに思いを巡らせて、胸の奥深くにそっとしまっておくならば許されるだろう。

この想像力がある程度の年月を経て妄想力まで発展すると、老夫婦は漸く授かった一粒種を病気か何かで失って、以来、残された母親としての細胞を基とする精神世界ではずっと人形を子どもに見立てて連れ歩いているのだろうとか、子どもの成長に合わせて人形も大きくなっていくのだろうとか、その度に服を買い換えるのかとか子ども部屋も模様替えをしてランドセルを購入するとか誕生日にはお手製のケーキの上の蝋燭が1本ずつ増えて行くとか、その全てを老紳士はひたすら黙して見つめているのだろうとか。命日には老紳士1人だけで墓参りに行くのだろうとか、もしかしたら名前を付ける隙もないまま逝ってしまったので戒名か洗礼名しかないのかもとか、下手したら戸籍すら残っていないのではないかとか、どんどん断片を勝手に組み立てていってしまうのだが、これは対人関係では殆ど役に立たないだろう。私が悪趣味にも個人的に楽しむだけだ。

ところで、これと全く同じような出来事に遭遇したのは数年前の事だ。ラオスの時計台の付近で泥まみれのよれた服を着た30代くらいの女性がよろよろと歩いてくる。とても失礼極まりないが遠くから一見してすぐ正気ではないのがわかった。大事に抱え込まれたソレは、ちょうど赤ん坊くらいの人形。その周辺に行くと高確率で遭遇していたので、毎日徘徊しているようだった。二度目のラオスでは一度も見かけることがないが、今どうしているのだろうとたまに気にかかる。

また、その後同じような話も見かけた。コンビニに置いてあるワンコインで買える都市伝説や本当にあったちょっと怖い話(ホラー的な怖さではなく)の類の漫画に載っていたが、ちなみに私が齢9歳で読んだ本とは学校の道徳の教科書だった。
この転身ぶりは皮肉なのか、ブラックユーモアと取るべきか。ついでに言うと幾つかバリエーションがあるらしく、人形が等身大のマネキンになっていたりする。舞台もレストランから友人の家になっていたりするが、共通点は人間の形をしたそれに食事を与える事と、その家族に該当する人物は事実を何一つ明らかにしない事。
そういう読み方をすると、怖いと言うよりは物悲しくなる。まあ、「知らない」「知る事が出来ない」「分からない」という不安や混乱は恐怖の根源ではあろう。それは否定しない。が、「最も怖いのは人間」というありふれた一言を、やや棘を込めて放ちたい。