十二月には通用しない
「オーブントースターを使わずにブッシュ・ド・ノエルを作れるらしいよ」
フローリングの床に長々と寝そべる彼に彼女がそう言ったとき、この部屋はまだ八月だった。
なんてことはない。壁にかけてあるカレンダーを長いことめくらずにいただけである。
カレンダーは華奢な字体で、数字の八。その上には入道雲とひまわりの写真。長方形に切り取られた夏。
この写真のようなできすぎた夏を手放したおぼえはない。と、彼女は仏頂面で考える。曖昧な季節の匂いと、洒落にならない暑さが、ただ遠のいただけのことだ。たったそれだけで秋になった。実際もう十月だ。
止まっているカレンダーに気づいたのは彼だった。
「うわ、まだ八月のままじゃん。二ヶ月も遅れてる。信じらんない、二ヶ月も」
普段はだらしないくせに、妙なところで真面目な男である。カレンダーをめくり忘れるなんて言語道断とばかりに非難された。言葉とは裏腹に、どこか機嫌の良さそうな声で。
「ねえユヅルくん。世界中に置いていかれてるんだよ、この部屋」
部屋には彼と彼女のふたりきりだ。
「めくっていいよ」
彼女は爪を磨きながらそう言ってやった。
女の人の爪って楽しそうだよね、と、いつかの彼の言葉を思い出す。
ショートケーキの苺とか、ファミレスの呼び出しボタンを押す権利とか、そういうものに弱い彼である。カレンダーをめくるときもわくわくする性分のようで。
「じゃ、遠慮なく」
屈託なく弾んだ声のあとで、紙を破く乾いた音がした。さらにそのあと、あ、やべ、と小さく呟くのもしっかりと聞こえた。なにかと手間のかかる子である。
顔をあげれば、突然、十二月になっていた。
「ごめん。なんか、こう、一気にめくったら、全部剥がれた」
要領を得ない彼の言葉。残ったのは一番最後の十二月だけ。
写真はちらつく雪とクリスマス飾りだった。十二月には天皇誕生日も大晦日もあるというのに、完膚なきまでにクリスマス一色だ。赤と緑と銀色、バランスよく配置された幸福さと暖かさと、その引き立て役の寒さ。
どれもこれも、クリスマスが好きですと可愛らしく主張していた。可愛らしくて、刹那的だ。写真素材はシャッターを切ったあとで撤収されたに違いない。そうでなくちゃ、と彼女は思う。スマートに過ぎ去るからこそ毎年待ちわびるのだろう。
クリスマスが好きだということを、彼も彼女も内緒にしている。
四ヶ月ぶんのカレンダーを所在なさげにペラペラしている彼は、見た目だけは芸術的なまでに綺麗だった。
嫉妬や憧憬や下心の向こう側をいく非常識な美形だった。そう、ちょっと深刻なくらい、綺麗だった。
だけど彼女の興味をひいたのは容姿ではなかった。なんだかすごくかわいそうだと、直感的に思ったのだ。何不自由なく育ってきましたという風情の、身なりの良い男を前にしてだ。
その綺麗な顔で世渡りしてきた彼にとって、それはイレギュラーなことだったかもしれない。もちろん彼女にしても、そんな脈絡のない同情にこんなにも心動かされたのは不測の事態だ。
その違和感をポジティブに解釈する(たとえばそれが恋だとか)には、お互い性格が暗すぎた。彼も彼女も嫌な方向にセンスがよろしすぎたのである。
――これが噂のレンアイってやつですか。なにそれ、ご冗談が、きつい。
それはさておき。どうしてそんなにたくさんめくっちゃったんだろう。彼女は思う。馬鹿だからかな、とすぐに結論が出た。
いっそ潔いくらいに、容姿が取り柄の男だった。まともな料理を作ったりだとかそういうことはあまりできなかった。役に立たなかった。
それでも箸だけはきちんと持てる。玄関で靴を脱いだあとで、しゃがんで靴を揃えてからあがる。
躾が行き届いている。そう思ったとき、誰にだかわからないけど、なんとなく、嫉妬に駆られた。そうしてやはりなんとなく、腹いせに、プリンはモロゾフしか食べないというポリシーを打ち砕いてやった。
うちお金持ちらしいよ、すごく。出会ったばかりのころ、彼はそう言ってふにゃりと笑った。
箸よりも重いものを持たずに生きてきましたというような印象を受ける彼だけど、セックスの際に彼女の両膝を軽々と抱えた。
理不尽なくらい、馬鹿で綺麗で金持ちで、まともな思考回路を培うことはできるだろうか。
その境遇は彼になにかを考える隙を与えないようにと、神様が仕掛けたトラップではないだろうか。かわいそうな人間をひとり、つくってみた結果、彼ができたに違いない。
あいかわらず彼はちぎったカレンダーをペラペラさせて、十二月のカレンダーの写真を見つめていた。放っておいたらいつまでも見ていそうなので、貸して、と声をかける。
よこされた四枚のうち十月と十一月だけ、十二月の上にセロハンテープで貼りつけた。
「万事解決」
「十月に戻った」
「あたしは時空を操れるのだよ」
「わーすごい」
彼は、たまにすごく簡単なので、やりづらい。
「で、ブッシュ・ド・ノエルがどうしたの?」
そこでようやく冒頭の話題に戻った。
あぁ、と彼女はカレンダーから彼へと視線をスライドさせる。そうして柄にもなく、可愛らしく、にっこりと。彼が息を呑むのがわかった。
カナが笑う。それだけのことを、彼はわけもなく特別扱いしているのだ。それは恋愛感情に似てこそいたけど、それよりももっと、警戒心や敵対心に近かった。まったく可愛い男じゃないか、と、思う。
「オーブントースターいらずのお手軽スイーツシリーズ、十二月号はブッシュ・ド・ノエルのつくりかたです」
彼女の部屋の本棚にある、一年前の料理雑誌の話だった。
毎月購読しているわけではない。気まぐれで一冊買っただけ。今まで捨てずにいたのも気まぐれだ。
言ってしまえば、彼を自室に転がしておくのも気まぐれに過ぎない。だってそういうことにしておかなければ、この男、今にも逃げ出しそうじゃないか。
「まだ十月ですよ」と、彼は平生を装う。
「さっきまでは八月だったよ」と、彼女は普段の仏頂面に戻って答える。
「そして一瞬、十二月だった」
「ねえケーキつくってよ」
充分に助走をつけて飛んだつもりだったけど、彼にしてみれば不意打ちも甚だしかったようで。さてどこからなにに抗議しようかと、思案する顔がやけに真剣なのがおかしかった。
「俺、料理できないよ」
「大丈夫、できるよ」
根拠もなしに無表情で励ました。どうせこの男はバターを溶かす段階で失敗するだろうけど。
つくれるかしら、と可愛い子ぶった声が近くなる。間近で見る瞳が場違いに欲情していたので、こいつ案外不粋だな、と彼女は密かにほくそ笑んだ。たまに機嫌良く笑ってみせればこれである。
「まさか、いますぐつくれとか言わないよね」
「うん、言わないよ。バターないし」
「バターいつ買うの?」
「十二月」
「十二月にバター売ってるかな」
「売ってないかもな」
「マーガリンでいいんじゃないかな」
「いいかな」
「カナさんがいいならいいよ」
なんの話をしているのかわからなくなった。
ただ、抱き寄せる腕の慣れたことといったら。反転した視界の鮮やかなことといったら。頬に彼の睫毛が触れた。
「てゆーかカナさん、甘いもの嫌いじゃなかったっけ?」
「なんとなく十二月にケーキを食べたい気分になった」
「そっか」
「十二月はケーキを食べる季節だからね」
「……目、閉じてくれません?」
「ユヅルくんが閉じなさい」
え、と薄く開いた唇を塞いだ。
お互いここまでやっておいて、そこに愛はありませんよ、と、しれっとした顔で言うのだろう。
十二月につくるブッシュ・ド・ノエルを、クリスマスケーキと形容しない頑なさとか。そんなことが、いったいいつまで通用するのだろうか。
たとえば、クリスマスが好きだと言ったら、もう二度とクリスマスが来ない気がする。
彼も彼女も厳かに構えすぎている。違う相手なら、もっと簡単に済ませられるのに。違う相手じゃだめなんだとは、なぜか恐ろしくて言えやしない。ふたりとも口数が減る一方だ。
自分の吐く息が思いのほか熱かったことに辟易して横を向いたら、八月のカレンダーがすぐそばにあった。
夏が床に落ちている。そうして今は、セロハンテープで貼りつけらた十月を謳歌。
はからずしも、この部屋の季節を巡らせたのは彼かもしれない。どうかどうか、この先もその役目が彼のものであってほしい。この感情を恋と呼ばずしてなんと呼ぼうか。
簡単なことである。病気だ。彼も彼女も病んでいる。いまのところはそういうことで、どうか、ひとつ。
「ねえカナさん、俺のこと愛してる?」
「べつに」
はたしていつまで通用するのやら。