キシキシぷらむ視界

だらだらと長いだけの日記と、ちょこちょこと創作メモのような何かがあるブログ。

のうとか。


はてなブログ、お久しぶりですね。
月一ペースでちまちま更新しております。


「嫌なことばかり記憶してしまうのは、人間の本能だ」

「危機回避の為ですか」

「そう。あそこに行くと手強い敵がいる、遭遇するのはうまくない、そう思い知って近寄らないようにすることで、自分を守るわけ」

「……すると、たとえば、良い狩り場を見つけたら忘れずにいることも生存に役立ちますよね。対外的には仲間に知らせれば一目おかれるかもしれないし、のちに続く人にも受け継いでいけますし」

「そういう考え方のほうが精神衛生上良いだろうね」

( 出た。お決まりの文句、精神衛生上 )

「でも、本能というよりは知性に近い気もしますね」

「そうだね」

「現実的なことを考えると、悪い感情を良い気分で上書きしてしまいたい……です。良いものがある場所をちゃんと知っておいて、負からの避難所にする、というか」

「それを無理なくやれるようになったら、かなり楽になれるだろうね。でも、まあ」

「なかなか難しいですよねえ」

「心がけとしては良いと思うよ」


数時間後、唐突に気づいた。
ただひたすらに生きのびることと平穏に暮らすことをまぜこぜにして会話していたことに。
どうにも禅問答でおごってしまうこの団体の気質。嫌いではないが好きではない。

はるか昔のことのたとえに見えるようでいて、現代でもごくごく自然に為されている処世術ではあるのだと思う。
ただ、思うほどには、今やそう簡単に飢えたり、ましてやのたれ死ぬことはない。
そうなりそうな状況は世間で呆れるほど起きているけれど、それこそ本能が求めれば救いの道も必ず敷かれている。やや不安定な均衡のもとに。
それは社会福祉や慈善事業の力のおかげでもあるし、医学の進歩も関わってくるだろう。これもまた、良くも悪くも。
だからこそ、とにかく何がなんでもまず生きる、という根本的なことを忘れがちなのではないか。
生きていられることが、とてつもなく当たり前すぎて。
ゆえに私もうっかり生きることをすっ飛ばして暮らすことの方に飛躍してしまったのだろう。我ながら未熟なことである。

言うまでもないこと。
生きてこそ、暮らしがある。
生きることが基本的に、そして社会的に確約されている、そのことに安堵して、さまざまに心地よい暮らしを求めることができる。
「良い狩り場」というのは、栄養のある肉がたやすく手に入るとか、おいしい果実を収穫できるとか、そんな余裕やぜいたくを求めて、しかも大体は得られもする、ちょっと進んだ領域なのだろう。
だから、それを知性と呼んだことには間違いはない。多分。
けれど本能の話からはおおよそかけ離れている。

生存本能は楽や美を求めない。
感性を伴わない。理屈や分別もいちいち問わない。
ただただ死なないために生きる。それだけ。
人間としてそんなことで良いのか。
良いのだと思う。土台を否定すると、崩れ落ちる時は一瞬だろうから。

そして、感情のもとに、今にも死にそうになることも、また決してうそぶいてはならないのだろう。
内なる細胞は生まれては死に死んでは生まれ、分裂し、融合して、宿主が嘆き悲しんでいる間も勝手に生命維持に集中している。
脳は無意識下の思い出や感覚をたよりにして消失願望の核心をはかり、全身に危険を訴えかけ、希望や願望との交渉に急ぎ踏みきる。
知性が本能と複雑に絡みあいせめぎ合う、最たる瞬間のひとつだろう。
最終的には、本能を大切にした者だけが、この世に踏みとどまることが出来る。
死を希求することは知性の一部だが、人を生かすものの大部分は本能。
だとしても、もがいてもあがいても生きていこうと選ぶ意志は、知性の子どもに他ならないのだろう。
繰り返すが、生きてこそ暮らしが、現在が、未来があるのだから。
そうして幸せを探そうとする時、ようやく「良い狩り場」が意味を持ちはじめる。
それを去なす権利なんて誰にもないし、たまにはそこに逃げこんで、揺りかごで眠るようにしたっていいと思う。