キシキシぷらむ視界

だらだらと長いだけの日記と、ちょこちょこと創作メモのような何かがあるブログ。

2015年ラストブログ


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最近念願のうさちゃんと同居はじめました。お久しぶりですぷらむです。

自分に慣れる、ということがあるのだなあ、と。何の前ぶれもなく実感したエカマイ駅への短い通り道。

別に、自分になれる、ほんとうの自分になれる、なりたい自分になれる、などの発想とからめたいわけではない。
ただ文字どおり、自分に慣れた、あるいは、慣れてきたかな……?と、ふいに感じただけ。
変化したのでもなく、成長したのでも多分なく、なじんだ。
納得して受け入れつつある、と言い換えても良いのかもしれない。
でも、やはり、慣れた、という漠然とした表現が一番しっくりと来る。

私はあまり私自身のことが好きではない。
そのくせ、実態をよく分かってもいない。
一応、対外的に何かを始めるにあたり、傾向と対策めいたものを練ってはみるけれど、大抵はうまくいかない。
うまくいかないし、いきっこない、これこそが己が性質なんだろうなあと認めざるを得なくなってからは、ひたすらあがいたりもがいたりを繰り返してきた。
それすらうまくいかない。
けど、意外と頑固なので抵抗はやめない。
途中で、ああ、これが心が折れるということかあ、と思い知って脱力し、うずくまることはある。
もって10日。しぶとくまた暴れ出す。
おとなしく休んで自分を見つめる時間を大切にした方が、少なくとも今はより良いのだよと脳みそは訴えてくるけれど、退屈してしまう。
要するに潔くないので、失敗するとわかった上で試み、案の定、転落する。

そういう自分にあきあきしていたはずなのに、何だか、慣れたなあ、と、思ってしまった。
これは由々しき事態なのか、それともちょっとした好機なのか。
もう改善を放棄するのかと聞かれたら、そうではないと瞬時に答えられる。
と言えること自体、慣れたのだなあ、という感慨に振り返られる。

いつ慣れたのかは知らないのだけれど、慣れる前の私だったら、
「そもそも改善とは何か。全体的なのか部分的なのか。社会的になのか個人的になのか。そして放棄の真意とは云々」
と考えにふけることに時間を費やしたことだろう。しかも無為に楽しみながら。
今はその前に、すっと、「改善は続けます」と端的に答えが出てくる。
それでもこうして「慣れたんだよなあ」とくどくど書きつらねているあたり、我が基本に何らの揺らぎも生じてはいない様だ。

自分の面倒で厄介なところ、できそこないとしか表現できないところ、劣等感、自己評価、それなりの矜持。
すべてまとめて、慣れた。
諦めたので決してなく、慣れた。
という気がしている。
それで何か楽になったかというと、そうでもない。
別に大した影響は感じない。
ただ、「私が私に慣れるなんてあり得るのか」と折りおりに自問してはいる。

もしかしたら、自分をちょっとは気に入ってきた可能性も無きにしもあらず。
それも「そんなことは絶対にないはず」と言い切りたいところなのだけど、もしかしたら、という予感があるので何とも不思議な気分。

これを記してしまうのは相当はずかしいのだけれど、ここまで来たからには書いてしまおう。
慣れた、とはじめて感じた日から、何かの拍子で鏡をのぞいた時、違和感で我に返ることがあるのだ。
結構いい顔しているんじゃないの?
と。
ビジュアルの良し悪しでなく表情の話。
たとえば美容院とか、ジムの鏡などで、そういうことが頻繁に起こる。
以前は、そうした場でうっかり自分の笑顔なんて見てしまうと、美醜以前の問題として落胆したものなのに、今は逆。
自分で見てこうなら、他人が見ている私ってどんな感じなんだろう。
そういうことを、不安や恐れを持たずに、ぼんやり想像することだってできる。

変化でも成長でもないと書いたけれど、これが仮に、そうした類の第一歩だとしたら、ずいぶん長かったし、遠かったなあ。
まさかこうしたかたちになるとは我ながらあまりにも意外な途中経過なのだけれど、でもまあ、自分の思いどおりになんかならないことにも、いいかげん慣れたわけだよなあ。
この慣れの感覚に留まれるかなあ。
それで幸せなのかなあ。
これで満足するのは、何だかちょっと嫌だなあ。
わがままかなあ。
でも油断すると調子に乗りすぎるからなあ。
いつも、ここから、これから、と自分を鼓舞したり慰撫したりしてきたので、もしかしたらそれがあっての今かもしれないし、けど、まあ、慣れた自分に居心地の悪さを感じたらさっさとやり直せばいいだけだよなあ。そういのは得意だしなあ。あ、得意なことが自分にあるだなんて、いつの間にそんなことを言えるようになったんだろう。
慣れ続けるということは、はたして可能なのだろうか。
可能なことだけをする私は、私らしいのだろうか。

そうそう、私らしさというものも、この慣れとあわせて追求したいところ。
慣れたなと思ってからそこが気になってきている。
時節に恵まれた課題である。
一年後、妙に不慣れな自分とわけもなく不器用に奮闘している状況であれば、一番いい。
それこそもっとも私らしい姿なのだと思えてならない。
とりあえず、今の時点では。

皆様来年も良いお年をお過ごしください。2016年もよろしくお願いします。