キシキシぷらむ視界

だらだらと長いだけの日記と、ちょこちょこと創作メモのような何かがあるブログ。

2014年下半期

   


ここ半年近く体調が思うように整わず、自分でももどかしいばかりであった。知っている人は知っていると思うが、あえてこの場で詳細について述べるつもりはない。
抽象的に言うと、心というか、気持ちとすべきか、そんなものが摂食障害の様相を呈していた。
こうした表現は、実際にそれで苦しんでいる方々を傷つけかねないので、少ない引き出しの中を乱しては探ったが、どうしてもこれ以外のたとえではしっくり来ず、ただただ語彙の貧相ぶりに落胆する一方である。
申し訳ありません。

余所事、他人事の情報でおなかいっぱいなのに、感情はかわいている。
もういらない、誰かとめてくれないかと限界までつめこんで、結局、消化しきれずに吐き出す。
かといって自分をもっと客観的に見直して回復の手がかりを探るには、他者の意見なり言説がやはり不可欠ではないかという可能性に賭け続けていた。
その悪循環がほとんど一気に停止したきっかけといえば、人と直接、存分に話すこと、コミュニケーションだった。
なんと単純で確実なことだろう。

ずっと他者と没交渉だった訳ではないのだけれど、率直に自分のことを尋ねたり、泣き言を聞いてもらうことは、これまであまりして来なかった気がする。
いや、過去には散々やらかしていた。
とても久しぶりだった、ということになろう。
年齢を重ねるにつれ、できることと同時に、やれなくなることも増えていく。
でも、それは、ただ、大人げないからやらないという不要な自制心に由来するものであって、やっていけないことではない。

何かができるようになるにはそれなりの努力と時間が不可欠だし、向き不向きもある。たぶん、どんなにがんばっても、永遠にできないことというものは絶対に存在するだろう。
それに比べれば、もうやれないなと思いこんでいることのほとんどが、実際はかなりたやすく翻る。
身体を使うようなことでも手足がおぼえていたり、そうでなくても、またやれるようになれたらいいなと挑戦して悪いはずがない。
人に弱さを見せることなんて、かえってプライドが高ければ高いほど、あっさりやれるのではないか。
そのまま放置しておくと枯れ果てていくしか無いようなものを、まっとうなプライドが果たして許すだろうか。狂い咲きこそ華というもの。
他人という存在は、どんなに親しくても、それなりに怖くもある。
けれど、ここはひとつ、あの有名な言葉を信じておこう。

深淵が見つめ返してくれる。
その有用性や緊張感はどんな警鐘よりもつよく鳴り響く。
それでいて子守唄にもなり得る。


こうして、からくも私は突破口からひねり出てきた。
以後は様子を見ながら調整をこころみ、どうにも堪えかねたらまた人を頼り、それでも完全には晴れきらないもやもやしたもの、甘えておきながら理不尽にも芽生える身勝手な反発心、それらとの無理のない付き合い方やなだめる術をどうにかこうにか編み出しては放り捨て、ふりだしに戻り、そして現在に至る。
そろそろこの繰り返しに飽きてきたのだが、諦めるつもりはないので、ここに食生活の見直しを混ぜこんでみようと企んでいる。現代機器なんて無いラオスの台所で朦朧として、もうすべてがどうでも良くなればしめたもの。


私は長生きしたいと願いつつあるし、そうである以上、もっと適応力をはぐくむべきだろう。
ただ、腹八分目という古来の知恵も忘れずに。
満腹、つまり余地がない身体では動きたくもなくなって当然。

入力と出力がめぐる輪のなかで、ふりまわされず、立ちたい。
これが2014年下半期の課題になろう。
ちょっと遅れても提出できれば御の字、ぐらいのゆるさは、おやつの時間のような何かだと都合よくすりかえておく。


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