キシキシぷらむ視界

だらだらと長いだけの日記と、ちょこちょこと創作メモのような何かがあるブログ。

明日から本気出す。



お正月ももう期限が切れたかなと思わせてくれる1月4日。新年を口実に極限までだらけていた日々の余韻をせめて今夜は満喫したい。
一年の計は元旦にありとか申します。そんなに限られた時間の枠で残りの364日と半日が決まるなんて、大いに異議ありと潔く正々堂々、挙手したく存じます。
寝正月こそ日本の美徳。私はこの国に生まれ育った人間として、この懐の深い尊き文化をこそ謙虚ながらにも誇らしく、広く世界に知らしめたいところであります。
要は明日からは本気を出す。ちょうど月曜日がめぐってくるもの。このタイミングの良さにはちょっと脱帽する。ようし、気合を入れて稽古するぞ。

まあ、そんないい加減な私でも、やはり新しい年というものに対してそれなりの感慨はある。
まずおさらいとして去年はどんな年だったかなと回想しようとしたまでは良かった。未だ記憶に新しい昨年末の出来事が、2014年どころか我が人生のほとんどすべてを物語るようで、ひたすらにうなだれる羽目になった。ただでさえひとさまにまともに顔むけできやしない人間なのに更に輪をかけて恥の多い云々と深刻のうちにも陶酔気味に言い出しかねない状態に陥りかけ、早々に思考を放棄せざるを得なかった。
このことは意識のある時間帯は大体いつも頭のかたすみにあって折々に整理している段階なので、あまり真面目に構えないようにしている。まだ外気にさらさず、しめっぽい場所で大切に寝かせておきたい。

ということもあって、今年の抱負として、やりたいことよりも、やめたいことを並べてみようと思う。

そこで最初に頭に浮かんだことが、禁煙。煙草をやめます、禁煙します、と宣言して幾月経つことやら。今年こそがんばります。
禁酒はどうだろう。そこそこ強い方だと言われているが、ここ数ヶ月ほど ごくごくは飲んでいない。やめるよりも軽くたしなむぐらいはしたいところ。少なくとも強く意志をかためてやめますとは言えない現状だ。
ギャンブル……も、そもそもやっていない。だがギャンブラー的な生き方に憧れる14歳の精神は健在である。これはやめたくない。オールオアナッシングな生き様ではなく、14歳のこころをやめたくない。

そもそも、やめたくなることというものはどんな理由から発生するのだろう。
健康に差し障るから。自分の人生にはまだまだやるべきことがあるから。そのためには邪魔だから。
目的の阻害になるから。
もったいないから。
身の丈にあっていないから。
必要ないから。無駄だから。
もう卒業してもいい頃あいだから。
自分に向いていないことが分かったから。
やめた分で他のことができるようになるから。

大体こんなところだろうか。
最後のひとつ以外は消去法に近い気もする。
そして、これらの言い分のどれも私は好きではない。
妥当ではあるし正論だと納得はするが、私自身は意味がないことが山のように存在する日常にしあわせを感じる。
つまり、合理的視点からだと、無駄で、不必要で、年相応でなく、得手でもないこと。そういうことが何故か無性に愛おしい。

となると、何かをやめようと決意する時は、それなりに断腸の思いを伴うことになる。私にとっては大切なものを、文字どおり切り捨てるのだから。
そうした痛みのない、せめて少ない、やめたいこと。
はたして何があるだろうか?

いわゆる怠惰な生活ならやめられるかもしれない。ああ、これはやめたい。是非ともやめたい。やめられるものならば。

やめられないことではないはずだ。自分ひとりのことなのだから。やる気があるかないか、それだけだ。とてもとても単純なことだ。
やめられないに決まっていると言ってしまったらやめられないと決まってしまう。
自分には難しいなと思うことをひたすら努力し挑み続けてこそ、きちんとした大人なのだ。
結果は後からついてくる。悩んでいる暇も恐らく両立できる。やめられるかなとしょっちゅう不安になりながら、やめていく感覚を淡々と積み重ねるしかない。
が、ひとくちに怠惰といっても彩り豊かである。
私の場合すぐさま頭に浮かんだ部分は、運動量と食生活。
そういった部分で良くないと自覚のあることを、やめる。
たとえば、作業の如何に関わらず、日中、寝転がりっぱなしでいることをやめる。
寮の食事以外は自分の手の入っていない食事を、今の半分ほど、やめる。
売店に週3回以上は行かない。
休日の食事で市場への徒歩15分という遠征を忌避する怠惰っぷりを、やめる。

昨年にやめたこともある。
やめたというよりも、縮小したとする方が適切だろう。
それはネット上での発言の場だった。
現在は、ウェブで日本語の文章を綴る場をほぼこのブログに集約させている。あとはかろうじて詩と創作メモを置く個人HPに。
そうすることで得たものがあるとすれば、迷う時間と自分の中の違和感だろう。
これはmixiに、あれはFacebookに、と区分したり重複を自分に許したり、そういったことが私にはきゅうくつだった。それでも楽しければ続けただろうが、私はやめることを選んだ。
その道をどんどん進んでいくと、最後にはサイトをやめて、言葉として残したいものはペンと手帳やノートで充分という昔ながらの狭く小さく安全な領域に戻るのかもしれない。
が、それはきっともっと先の話。早くても5年後あたりではないかと踏んでいる。
とりあえず、このやめたことは、このままやめ続けていくつもりでいる。
自分の場所を選べるという恵みがどれほど大切か。年を経るごとに実感している。

自分の生きる時間に対する不敬な態度をやめる。
無理やりにまとめると、こういうことだろうか。 

実は長文書きをやめるというのも思いつきはしたけれど、弁明するよりいち早くきっぱりあきらめた。
書くことがうまくなりたいのならそれを目指すのも良いだろう。だが、私はこれに関しては上達よりも楽しんでやることを続けたい。もうちょっとこうなりたいということはあるけれど、やめたいものはそこにない。ひとつもない。

一応、やりたいこともこそこそと記しておく。
編み物、ビーズ細工、人形のししまるの服を作る、満足いく短編小説を書き上げる、稽古以外でも定期的かつ習慣的に動く、休日の朝ごはんをきちんと用意して食べる。
他にも色々あるけれど、やめたいこととの折りあいがつくのかとしばし一考。
2015年は、うまくいけばバランスのとれたターニングポイントになりそうだ。

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寮に隣接した小屋で、好きな音楽を流しながら飲むビールは良い。非常に良い。