キシキシぷらむ視界

だらだらと長いだけの日記と、ちょこちょこと創作メモのような何かがあるブログ。

てくてく



私はもう少し、あるいはしばらくの間、型にはまった方が良いのではないか。
ふとそんなことを感じている秋の休日。


歩き方が悪いのか、新しい靴をおろすと高確率でかかとが血まみれになりシャワールームはもれなく苦行林と化す。
これを回避するには、足全体をおおわないデザインを選ぶしかない。すなわちサボ、ほぼこの一択となる。予備の候補とビーチサンダルなどが挙げられるものの、これはこれで親指と人差し指の隙間を痛めつけるのだからもうどうしようもない。
私ったらまるでバレリーナのようだわと陶酔できるのならばいっそ本懐というもの。爪先とかかとの違いなど些末な問題である。
しかし、できればやはり快適に、軽やかに歩きたい。
あたかも裸足の如き心地までは求めていない。ただ、購入前後からの不安、そしてまぎれもない肉体的苦痛の軽減と緩和を切望しているだけだ。私は断じてマゾヒストではない。


靴によってできた傷は、馴染むにつれて自然に治っていく。足の形が変わるわけではなく、靴がやわらかくなるのだろう。
または、無意識に、その靴に応じたバランスを会得しているのかもしれない。
中にはいつまで経っても優しくならない靴もある。
どうしても相性があわないものは、如何なる場面でも出てくるものだ。極限まで無理などしようとせず、潔く別れを告げる以外に術はない。
気に入ったのになあ、高かったのになあ、と名残惜しさは尽きないけれど、いつまでも痛みに付き合っているわけにもいかない。


まだ幼い頃の話。ものづくりにしろ、読書や映画鑑賞にしろ、あえて定説どおりにやらない自由さとか、既成概念にとらわれないところなどを、私の数少ない長所として客観的に捉えていた節があった。
だが、視点の中心を主観に据えてみると、単に楽をせんが為の弁明に過ぎず、個性だとうそぶき、こまごまとした面倒を避ける、要するに自分に甘いだけだという事実が浮かびあがってきた。

性分として他者の意見に是も非も唱えたくないのでめったに議論などはしないようにしてきた。けれど、ある程度成長し18くらいの頃だろうか。外の世界に出て、私の周りには肯定も否定もないことに気づいた。

ひとりで黙々と作業をすることが好きという傾向は恐らく一生続くだろう。しかし、口出しをされる方が結果的には栄養になる。では、どうやったら批判や忠告を得られるか。
これはもう人前にものなり何なりをどんどん出していくしかない。
そのためだけにまずはひとつ、自分で絶対的に良しと言えるところまで完成させる。
少なくとも、最初のうちはそうしないと自己満足にしかならない。趣味だからそれで良いという考えもある。私もそのうちの一人だ。
ただ、ものをつくりあげる基礎のようなもの、それに向かう努力や継続する強さなくして、はたして自分なりの納得すらありえるものなのかと、だんだんに疑問に思い始めている。

つまり、最低限の準備を整え、始末をつけるまではやろうということ。途中の失敗は仕方がない。この際、完成度もどうでもいい。とにかく一通り、はじめから終わりまでの地道な過程をないがしろにしないこと。
今までそこそこ輪郭が見えてきた気がしたら急に思いつきのままに省略したり足したりして、結局さして何にもならず放り出すことがあまりに多すぎた。常に次に目移りしていて集中力も途切れがち。
忠実にひとつ完成させれば、次に生かせるものが必ずある。
しかし、決して近道ではないだろう。
基礎こそ神髄として決して疎かにできるはずがなかったのだ。
きちんと型にはまってみないと、あるか無きかの自分らしさとの差異など、はかりようもない。

上記したことのほとんどは今手直ししてる創作小説の話。
何にしろ、うまくやるより喜んでいたい。研鑽と両立できれば願ったり叶ったり。

新しい靴のいたみと共に歩むからには、外に出ないわけにはいかない。久々に息抜きがてら、カメラを持って散歩でもしようかな。


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