キシキシぷらむ視界

だらだらと長いだけの日記と、ちょこちょこと創作メモのような何かがあるブログ。

ただの痴話げんかのお話



反対意見で論議していて「あなたの言うことも分かります」という対応をする場合、大抵は言葉通りに受け取らない方が良い。

「分かるけどね、でもね……」というエンドレスというかループの始まりの鐘が鳴ったと捉えた方が懸命ではないか。

たとえば、死刑制度について。
賛成派が、
「あなたの子どもがもし酷い目に遭って殺されたとして、それでもあなたは加害者を恨まないのか。死刑を望まないのか」
と憤りつつ問い掛けたとする。
反対派は、
「その憎しみは分かります。分かりますけど、憎しみは何も生まないし、加害者を殺しても被害者は帰って来ない」
となる。
そうなるともう、「分かっていると言いながら分かっていないんだろう」と痛いところを突かない限り果てしない水掛け論。
だからと言ってどちらも間違っていない気がしてしまうのが第三者のぼんやりとした印象だろう。傍観は安全だし、何より面白い。それだけではいけないと分かっている、分かっているけどね……でもね……。

たとえば、ルール違反に対して注意した人間が暴行を受けた場合。
多くは、
「正しい者が馬鹿を見る世の中になった。嘆かわしい。酷いことだ」
と、それこそ正論を口にする。
しかし一方で、
「分かるけど、正しいだけではやっていけない世の中だなんて今更周知の事実。殴られた方もそれぐらいの覚悟が必要は当然しておくべきだった。被害者かもしれないけどこれは口を出した方も悪い」
こんな異論が出る現代。
本当に嘆かわしい。酷いことだ。
と、第三者ながらはっきりと思う。
両成敗ですらない。
何故か?
後者は価値観の変化こそが正義だと信じているのではないだろうか?
自分の意見を持っているのが強いと主張したいだけではないだろうか?
多勢に対して無勢であればあるほど、真実に近いのだと錯覚してはいないだろうか?

思想の問題ではない。
行動の過ちを指摘されたら謙虚に受け止める、これは普遍的なことだろう。
時代も情勢も関係なく、忘れてはならないことがある。

それでもこの場合は殴りたいと思うのなら、殴ればいい。
ただし言い訳は出来ない。
それが一個人の選択なのだから、気に入らなかった理由とか、自分なりの理屈とか、述べ立てずにただ一言でまとめるべきだろう。
殴りたかったから殴った。
その一言以上は不要である。
それが不満なら、そもそも殴るなと言いたい。


ただの愚痴。


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写真は近所のラオス人夫婦。歳をとってもキスできるような関係、とても微笑ましい。素敵。