キシキシぷらむ視界

だらだらと長いだけの日記と、ちょこちょこと創作メモのような何かがあるブログ。

すれ違い



一見して不運だったり不幸だったりとひどく気落ちするようなことほど、言葉にして表現をする時は何より正確さを心がけなくてはいけない。
けんかにけんかを重ねてこれでもかというほど罵ったあと、一呼吸置いてそんなことを思った。

たとえば、就職活動がうまくいかない。
「人格を否定されているようだ」
と企業も自分もけなす気配に一呼吸。
「こういうことは運や縁も関係するものだし、適正の見なおしと能力を磨くために出来るだけの、より一層の努力が必要だ」

たとえば、親との関係がどうにも良好でない。
「親の期待にそえない、私はいらない子だから」
と自罰的になったらよくよく己を振り返る。
「親子といえど別人、その他者から求められることを何の疑問もなく受け入れてしまうほど私は馬鹿ではない」

たとえば、うさぎしゃんに手をかまれた。
「まったくもう、お夕飯にしちゃうよ!」
と激昂する前に現状を見わたす。
「テリトリー内を侵犯することは、そりゃ人間だって嫌だもんなあ」

最後の例は冗談としても、思いがけない痛みや失望、挫折に向きあわなければならないことは、もはやそれ自体が生きている証拠としても過言ではないほど自明の理である。
そんな時のために、言霊を信じている私としては、感情より理屈を優先する術を身につけたい。
ポジティブにとらえるとか、ものは言いよう、という姿勢と変わらないようで、ちょっと違う。
主観的でなく客観的な事実に集中する方が、結局のちのち活きてくるようになる。

これは人との会話の中でのすれ違いや誤解を何とかかんとか回避することにも役だつのではないか。
そもそもの端緒はそこにあった。
会話をしていて何かを伝える際に、本当に言いたいこと、言わなければならないことを、その人なりのやり方を織りまぜてしまうと混乱する一方。
そこに自己表現は必要ないのである。
伝達は正確であることが最重要課題。美しさや独創性は邪魔なだけ。
そして伝わらなければ、どんなに思いをこめていても、意味がないのだ。
伝わらなくても構わないという自己犠牲めいた何かを伴う場合のみ、自分らしさを尊重すれば良い。
ここで更に注意すべきことは、会話と伝達は別ものということ。会話にはウイットやユーモアがあった方が楽しい。客観に努めると窮屈になる。

言い方はこうだけど本心は違う、そこを汲みなさい、という要求は暴論である。
想像力を鍛えるためには有効かもしれないが、受け手が疲弊してしまったら関係そのものが破綻しかねない。そう、ここ重要。

と言いつつも、私は日本人特有のあうんの呼吸や以心伝心というものも好きだ。
海外ではそれは通用しないので立場や技量をふまえた上で明確に口に出しなさいとそこかしこで説かれている。
それも勿論、必要なことなのだが、日本にいる時にまで絶対にやらなければいけないことでもない。そこは臨機応変で良いと思っている。
自己主張をしないと損をするといったことも、それこそ事実を客観的に把握してからもう一度よくよく考えてみた方が良いこともある。
意見を言う言わないもそれぞれの責任。私自身、意見や考えがない訳ではないが、あえて口にしないことを選ぶことが多い。
何故かといったら、まずは周囲の言い分に耳かを傾けたいから。その中に大抵、おおむね同意するものがあるので、私はそこに付け足すくらいで充分だと思っている。
そこに損得があるかはまた別の話だろう。私的な感情的なことでもあるので、なお公にすることでもない。

先に書いたように私は言霊というものはあると思っているし、文章を書くことが好きであり、日常の欠かせない、欠かしたくない大部分を占めている。
時に、文が独特ですねと言われることもあるが、個性云々よりも伝わっているか否かの方を最近特に案ずるようになった(ここにある文章はすべて趣味なので、上記した如く伝わらなくてもまあいいかと緩やかに覚悟し納得してやっている)。
そして、書きものよりも話し言葉のほうが難易度は遥かに高い。
その場その場で、冷静に、正確に、ものごとをそのまま、伝えるべきことを、伝える。
これが出来なければ口争いなったが最後、ひたすら平行線。
「こういう意味で言ったのに分かってくれない!」
となっても、そういう意味の使い方が間違っていたり妙にひねってあったりしたら、そうそう届くものでもない。

というところで、はじめに戻る。
はたして、私だけが悪いのか?
相手だけが良くないのか?

一応、私なりのや思惑は毎回きちんと説明していたので、けれど、それが伝わっていなかったのなら私の言い方に何かしら問題があったのだろう。
あちらがその私の言い分はおかしいと納得してくれなかったのは、仕方がない。そこまで私は責任を負えない。
同時に、いくら正しくてもそうやって私の人生に立ち入る権限もあちらにはない。
恐らく客観的事実は、私達は合わない。
これに尽きる。
しかし主観的な感情は、良き友人でいたいと切望している。
ここの折りあいをどうつけるか、ひとまず当分は理屈で対処することにする。
もっと分かりやすい感情では、あなたこそなんで分かってくれないのよ、と理不尽に訴えている。
その点を特に客観に変換できれば良い。結果、どうなろうと、互いのためでなく、ただ私のために必要な経過を今たどっている。

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歪んだデザインの門。素敵。