キシキシぷらむ視界

だらだらと長いだけの日記と、ちょこちょこと創作メモのような何かがあるブログ。

無関心の反対




混乱していたり不安になっている他者に対して、冷静な態度でいることが冷淡や無関心と受け取られる。これってこういう施設でなくても意外と良くあることなのかな、ふと考えた。
もしかして同調した素振りで一緒にパニックになる外見を繕う方がベターなのか、とも。

落ち着いて客観的な態度でいることが人を傷つけるなんて、少し前までは想像もしなかった。
優しさの尺度は人それぞれだと、それは分かっているつもりだったけれど、伝わり方と言うのか受け取り方と言うべきか、そこで生じる温度差に傍観しつつもただただ驚いたことが以前あった。
感情を尊重しつつ有益なアドバイスが出来る人こそが優しいのか。何も力になれないけれどぶれない視点で話を聞く行為は偽善なのか。

私はそう簡単に人の気持ちを分かったつもりにはなりたくない。ただ、せめて話の内容や全体像を把握するよう努めたいとは思っている。それには普段よりずっと気持ちを静めていなければならない。
発言からは主観を取り除いておきたい。
たとえ共感する部分があっても、迂闊に表さない方が良い。
もちろん臨機応変に匙加減を変える判断力や技術は不可欠だ。けれど基本的には、相手の感情に呑み込まれてはいけない。
何のための他人なのか。自分とは違うこころを持っているからこその相談や会話なのではないのだろうか。

共に泣いて共に喜ぶ、そういう人間関係は大切だと思う。上辺だけ優しくするのもそう難しいことではないし、その方が楽である場合も多い。
それなのにあえてその方法を選ばないことには、多少の意味がある。人の苦しみや怒りに原因があるのと同じように。

何故わかってくれないのか、認めてくれないのか。
その思いを口にするか否かの差は残酷なほど大きい。きっと、その代償も。