そらのうた
ロストワンのほにゃらら
ピアス
2015年ラストブログ
ベッド上の空論
普段言葉をあまり発さずに溜まったこの感情、感じた事をまたキシキシで吐き出すだけの記事です。少しだけ長くなりますがお付き合いください。
自分なり、というのは、案外よろしくないのかもしれないなと思った。
それは今月のはじめだったか、10月のおわりだったか、そのころに。
自分ひとりのことなら問題はない。
むしろ徹底的に、自分なりのやり方をつきつめていった方が良いのだろう。
でなければ実力というか、できる範囲のことすらわからずに、遠からず途方に暮れることになる。
けれど、人と向きあうなり関わりを持つ時には、それは通用しないと思った方が良いのではないか。
もしかして言うまでもないことなのかもしれない。しかし私はなかなかそれを知るに至らず、妙にからまわってしまっていたのだ。
私は私だとか、これが私だとか、それも悪くないとは思う。でも、ある程度の覚悟は必要なのかもしれない。
「 あなたの言う、あなたの個性や、方法や、信じて譲らないことや、心づもり。それらを私は残念ながら理解できないし、共感もできません 」
と言われても、否定されたと騒ぐようではみっともない。
結局のところ自信なんかまるっきりな無いんじゃないですか?と問われて、どう答えるかが見ものではある。おいしい紅茶でも飲みながらのんびり見守りたい。
とはいえ、大抵の人は、その自分なりをやっているのだろうとも思う。
正確に言うと、自分なり以上のことなんて、そうそう出来やしない。
他人なりをやってみても、きっと居心地の悪さにとらわれるだけだろう。そもそも他人なりとは何だという話になる。
みんな、それぞれ、自分なりの考えで語り、自分なりの言葉で伝えようとし、自分なりのやり方でものごとを片づける。
自分なりの好みで選び、諦め、断り、決める。
人間の数だけの自分なりが世界を構築しているといっても過言ではない。
せめぎあい、ぶつかりあい、それでも何とか折り合いをつけながら、それで世の中がまわっているなら、私が私なりの違和感で杞憂しても仕方がないことなのだろう。
でも私自身は、その自分なりというものをちょっと見直してみたいな、と思うのである。自分なりに。
それほど当たり前のことなら、逆の視点から見つめてみたくなるのである。自分なりに。
今後の人間関係はそれを基にして進めていきたいと漠然と考えているのである。自分なりに。
あまりにも当然で簡単なことほど、疑ってみる価値はあると信じてやまないのである。
自分なりに。
真剣に話をしていても、どうしてか通じあわない、何かしらねじ曲がった論調になる時は、多分この自分なりが、人間の口よりもよほど言葉足らずだからなのかなと、そう感じることがしばしば。
単純に相性が良くないとか、性格があわないということも勿論あるし、どちらか、あるいは両方ともそもそも何か間違っている、その可能性も決して忘れてはならないが、せめて会話の間ぐらいは一抹の希望に賭けておきたい。
世の中には、人間は本質的に分かりあえないものと思っている人がいるという事も理解している。
別にことさら絶望している訳でもなく、ひとりひとり違う存在なので、はたして分かりあう必要があるのかなあ、別に分かりあえなくても共存も共有もできるからなあ、という感じ。とにかくそのあたりを重要視していなくて、それどころか相違が楽しくて面白くて、分かりあう努力なんて何だかもったいない気もする、そんな程度。
一方で私は本質的に分かってほしくてたまらないと思っている類に属している。とにかく分かりあいたくて一心にあがいている。
しかし、上記したような人も存在するということは、ちょっと見落としていたようだ。
私の未熟さが浮き彫りになった瞬間であった。
会話の上で私が持つ希望というのは、それぞれだよねと緩やかに認めあうと言うのか、許容することだった。
後で「あんなのおかしい」と影に日向に言われても別に構わないので、せめて卓を共にしている間は、というくらいのこと。
両者ゆずらずの討論はきらいだ。やはり疲れるし、あまりめでたく集束することもないし口下手だし、もうちょっと勉強して今より懸命になれるまでは控えておこうと思っている。
が、そんな私なりのささやかな望みさえ「分からない、分からないことを分かってほしい?とくに分かりあいたいとは思わない」と断じられるとは予想だにしていなかった。
そこで「分かった、分かりあうために私は私なりを捨てます」とその場しのぎでも言えたらどれほど楽なことか。
そんな嘘はつけないので、私は私で私なりの見解を示したりするから泥沼にはまるのである。
ちょっとだけ賢いふりをしてひととき私なりを忘れ、とりあえず聞くことに集中してみると、その人はその人なりのことしか言っていないことに気づいてしまう。
その人なりなので、本意を語る時の表現も独自のもの。
何を言っているか判然としないので何度も聞き直さなければならないし、八割がたこちらが誤解しているのではと疑い続けなければならない。遂には自虐に陥るほどに。
それではやはり伝わらない。伝わってこない。
汲みとってみて正解だとしても、何か無性に虚しい。
私は、結構、とにかく何かを言っていたい生き物のようだ。
つらいとか、さみしいとか、嬉しさも、よろこびも、愚痴も、心の中に溜めておくだけでは足りずに、どんどん知ってほしくなる。
それはみんなも同じ。
そしてそれぞれに語る手段がある。
会話、文章、歌、ものを作ったり、そこで人生設計を用いる人も、時に暴行に走る人もいる。
ネット上の祭りや炎上に乗っかっての声高な主張に特化した人も、たぶん予想以上に沢山いる。
何であれ、その根っこにあるのは、自分なりの正義を、思考を、努力を、苦労を、願望を、聞いて、知って、わかって、肯定して、というもがきに他ならない。
それを大体みんなが一様に、自分なりの方法でやるものだから、そこかしこに奇妙な対立が起こる。
賛同を求める時に必要なはずの謙虚さがどうにも見あたらない。
理解を求められている側にも、大切にしているものが他にちゃんとある。わざわざTwitterや何やらで口にしてはいないこと、沈黙のなかで守り育てているもの、誰にも踏み入れられたくない聖域がある。
そういうことを明らかにしないことが間違いのもとだとは、私はまったく思わない。
あなたに何かがあるように、私にもそれがある。中身が違うだけのこと。
それがゆえに相手の言い分を全面的に受けいれることはしかねる。
ということもあるのだと理屈でわきまえておかないと、非常にややこしいことになる。
では、自分なりと、その人なりを、なるべく仲よくさせることができると仮定して、そのためにはどうしたら良いか。
ゆっくり時間をかけて考え、思いあたった。
日ごろから引き出しの中身を増やしておくと、ずいぶん役立つのではないか。
自分なりのやり方だけで押し通すことは、いわば、それまでの人生において勝手にぱんぱんでごちゃごちゃになった自分だけの引き出しで勝負するようなもの。
その引き出しをひとり静かに開けて、今後は努めて意識的に、他者の価値観や方法論みたいなものを少しずつ足していく。
寝かせて、なじませ、風を通し、適度に自分のものにしていく。
この引き出しは四次元空間なので、いくらでも入る。遠慮することはない。
時々ちょっと整理をして、何がもとのかたちで残っているか、はたまた変化したかを確認する。
何も起こっていないものは、自分に必要かをよくよく考えて、何なら自分なりに作り替えてしまえばいい。
もちろん、いままでありがとうと捨てたっていい。
引き出しに納めた時点で所有権は我がもの、でも出典への敬意は忘れずに。
ということを繰り返しくりかえし続けていけば、他者を前にしても自分なりのことしかできない人間に遭遇したところで、あまり圧倒されたり揺さぶられたりせずにいられるのではなかろうか。
後は、一応、何だかもうどうしたものかなという様な人の言い分も、最低限は尊重すること。
少なくともその努力はしてみようとすること。
だけど自分にも矜持があることを、決して忘れないこと。何なら相手に忘れさせないこと。
と、つらつら書いたことを試みるには、やはりどうしても他人という存在が絶対不可欠になる。
自分なりというものを作り上げたのは、思いがけず、私ではない多くの誰かなのかもしれない。
ただ私が気づかなかっただけで、存外、ひとの手が相当かかっているのかもしれない。
であればこそ、不器用ながらに、やはりより良いかたちでそれを使いたいもの。感謝をこめて。
でもやっぱりよろしくないのかもなあ。
何だか日和見主義だし、所詮は机上の空論なんだよなあ。(私の場合ベッド上の空論)
要は相手の立場になってみなさいということなのかもしれないけれど、そこの位置でもものを見るときに使うのは他ならぬ私のこの目なので、たぶん違う景色が広がっている気がするんだよなあ。
やっぱり想像力で補うしかないのだよなあ。
それにも限界があるからなあ。そこを越えたら自分がなくなったりしないのかなあ。まあ、今の自分にそんなに未練はない……かなあ。
と、ふらふら迷いながら、地道にやっていくしかない。
結局、自分なりに。
のうとか。
夏が終わる。
不幸な気分
気づけばもう7月。
この長文日記を書かずに七夕月を迎えてしまったというのか。
毎日のようにこのコンテンツを更新していた頃が懐かしい。出張のどさくさ紛れにその原則は瓦解した。かわりにlivedoorBlogに日常を綴る短文日記があるからいいか、と思いきやそちらも気まぐれすぎる。
書くことがないわけじゃないのです。
それどころか、あれも書きたいこれも書きたい、そんな駄々をこねている7日間のくりかえしなのです。
多分やればできる子なです。でも、やらなきゃ絶対にできないんです。あまりにも当たり前です。
自己満足の場なのだし、まったくもって義務ではない、これが救いであり、かつ脳みそを甘やかす何よりの口実。
本当はルーチンワークとして、長文日記と言いつつ短めでもいいから毎日ちょっとでも書きたいのですが、いざテキストを開くともうとめどないんです。まったく始末に負えません。
というわけで、山ほどある書きたいことの中から、今これだけはというひとつについて以下、だらだらと述べる。
若い頃、特に十代、もうちょっとしぼりこんで、いわゆる思春期のころにやっておいたほうがいいこと。
それは、不幸な気分になること。
「大学在学中に何をすべきか、しておけばいいか」というコラムか何かを読んでいて、ふとそんなあさってなことが頭に浮かんだ。
ちなみに、その記事の中では、資格の取得、人脈の開拓と維持、TOEICを850程度、留学、海外旅行(特にアジア圏)、ダブルスクール、インターンシップ、ボランティア活動、恋愛、とにかく遊ぶ、などが「卒業ないし就職活動スタートの前に是非」と推奨されていた。
この中で私が実際にやったことはアジア圏進出とボランティア(?)、あと恋愛くらい。未だに運転免許さえ所持していない。マリオカートは中腰かつ両腕のみならず全身を揺らしてプレイせざるを得ない。もちろん、勝利の美酒の味など知りようもない。
一応お断りしておくと、大学進学すらしていないそんな私なりに楽しく有意義な生活は送っていた。キャンパスライフに憧れたりもするが、つたなくて愚かながらに愛おしい日々である。
話を戻す。
何故、十代なかばに不幸な気分になっておくと良いのか。
自分でもちょっととっぴな考えに過ぎる気がして、珍しくじっくり考えてみた。iPhoneの液晶を淡々と叩きながら。
まず、ひとつには、簡単にできることだから。
不幸な気分になることほどやさしいことも、そうそう無い。
私は不幸だ、とそう思った瞬間に、もう私は不幸な気分。まばたきよりはやく成就する。
故にやってみて努力の無駄だったという脱力感を恐れずにすむ。
また、免疫として有用かもしれない。
いわば、おたふく風邪や風疹のようなもの。
「三軒さきの山田さんのところの子が不幸な気分らしいから、ちょっと行ってきて貰っておきなさい」
反抗期だろうとこれは素直に聞いておいた方が無難。びっくりするほどあっさり感染する。
そして、傷らしきものができたとしても、その深さによるが、やはり治りも比較的はやい。
大人になればなるほど痛みは全身をむしばみ、しかも長びく。
治癒に専念したくてもなかなかまわりがそうさせてくれない、と現実と思いこみの狭間でもがき続けることになる。
最後に、自分の感覚というものを大切にして、信じられるようになる、かもしれないから。
少なくとも、やらないよりは、その可能性が高まる。
私は不幸な気分と言っているのであって、不幸の話はしていない。
たとえば、御不幸は何歳になっても何度むきあっても、慣れるものではない。回避できやしないけど、どうか起こらないでほしいと祈らずにいられない。
実際に不幸な境遇にある十代もいることだろうから、あまり無責任なことも言えない。
だから、あくまで、不幸な気分、であることを強調しておきたい。
日常のささいな幸せとか、かけがえのない、満ちたりたおもいとか、そういったものは大人になってからで充分。
若いうちは、ずっとでも、たまにでも、不幸な気分でいていい。そうであっていけない理由なんてない。
不幸な気分をまったく知らずに、あるいは自ら抑圧して成長すると、どこかしら傲慢に陥りがちなのではないか。
平均的に良い人間が絶対的に正しく、何ひとつ非も落ち度もなく、自分が見た黒と白のみがすべてになってしまう。
上手く言えないが、現代日本の子どもは基本的に恵まれているのだろう。
そんな中で不幸なんてぜいたく、と思われるかもしれないが、だから、不幸ではなく、不幸な気分なのだ。
自分は駄目な人間、いらない存在、理解してもらえない、好かれない、嫌い、ひどい、つらい、悲しい、孤独、消えたい。
そんなことを思ってはいけないと断罪する人間こそ、どうにかして不幸な気分を心ゆくまで味わってほしい。世代に関わらず。よもや手遅れということはない。と思いたい。
もちろん、十代で、本を読むだけで、歌うだけで、友達がいることが、陽だまりでの昼寝が、ごはんがおいしくて、うさぎがかわいくて、幸せ、と感じることが間違っているなどと言っているわけでは決してない。
そうした気持ちはとてもあたたかく育んでくれる。
ただ、そのすきまにある、ちょっとした寒さにこごえることを、悪いことだとは思わずにいてほしい。
更に付け加えるなら、この情報社会。
でありながら、結局、声の大きいところが正解と言わんばかりの空気。
せっかくだから出来うる限り多くのデータを集めて検証なり精査すればいいものを、たとえばウィキペディアひとつで終わらせてしまう。
そして、それが誤りのない、自分の知識であり主張だとして異論を拒む。
もちろん例外はあるが、それよりも、最初と最後は感覚を優先したほうがいい。
途中経過はネットや本、専門家の見識にまみれようと、それらを自分なりに洗う知性を捨てることは、それこそ不幸ではないか。
不幸な気分のなかで、疑うことと信じることを右往左往する。
どれだけ迷っても自分の感情から逃れられず、それどころかいつも始点にしてしまって、そして今ここに辿りついている。
間違っているか正しいか、そのふたつだけじゃない。
何かおかしいな、という感覚。
これでいいのかな、という感覚。
誰がどう言おうと、私はこうなんだ、という感覚。
その記憶と手ざわりが、ものごとの答えをいついつまでも探したり、あるいは、つくりだす強さを与えてくれる。
という気がする。
どうにも自信をもって明言できないところが未だに悩みどころ。
文責ですら怖い。まだまだ大人として足りないと痛感する。
どこまでも戯れ言。机上の空論。口先だけ。
という不幸な気分らしきものを未だにほんのり堪能しているだけある。現代では自虐とか言うのだったか。
無意識だと苦しいが、意識的にやると結構いい気分転換になったりもする。
成人の方々も、万一ご興味などありましたら、どうぞ軽くお試しを。
ところで私はマゾヒストではありません。あしからず。
胸中
ガヨのお話
ある朝、ガヨは言いました。
「そうだ、夜を探しにいこう」
ガヨはベッドから起き上がると、いそいそと大きなバスケットを取り出しました。
その中においしそうなサンドイッチをひとつ、ふたつ、みっつ。チーズとハムとレタスを挟んだやつです。バスケットに納めている間に、ガヨの口からはたらりたらりと涎があふれ出して、いつの間にやらバスケットがいっぱいになっていました。
ああ、しまったしまった。ガヨは慌てて涎をかき出すと、あついココアの入った水筒を入れました。ついでに、おやつのチョコレートも入れました。しろいのと、くろいのを、ひとつずつです。
「さあ、夜を探しにいこう」
ガヨはバスケットを腕に掛けて、意気揚々とドアノブをひねりました。
けれども、いやいやうっかり、まだパジャマを着たままじゃないか!
ガヨは顔を真っ赤にして、クローゼットに走り寄りました。
戸を開けると、ハンガーに掛かった色とりどりの洋服がずらりと並んでいます。ガヨはお気に入りの真っ白なシャツを手にとって、ベッドの上に広げました。パジャマを脱いで、うきうきとシャツを被り、さあ、今度こそ!
「夜を探しにいくんだ」
ガヨはもう一度バスケットを腕に掛けて、ドアノブをひねりました。
がちゃりと金具が音をたてて、ドアがゆっくりと開いていきます。
「夜はどこにあるのかな……」
―――バン!
ガヨの目の前は真っ暗になりました。
ああ、夜はこんなに近くにあったんだ。
探していた夜が見つかって、ガヨはとってもうれしそうに、にこにこと笑いました。
「やったか、エレン」
「―――ああ、やった、やったよ、セフィ」
エレンの足元には、大きなバスケットから飛び出したみっつのサンドイッチや、あついココアの入った水筒が転がっていました。
ついでに転がったおやつのチョコレートを踏みつけて、セフィはぷかぷかと煙草をふかします。
「じゃあとっとと上に連絡しちまうぜ。早いとここれを回収しに来てもらわにゃならん」
「そうだな」
「ったく……手間掛けさせやがってよォ」
そう言うと、セフィはジャケットの懐から携帯電話を取り出して、どこかに電話を掛けました。
ふらりと背中を向けて離れていくセフィを見ることもなく、エレンはずっと地面に散らばったものを眺めています。
拳銃を握ったままの右手は、まだ少しびりびりと痺れていました。
「……馬鹿だな、お前」
出てこなければ、殺されることもなかったのに。
吐き捨てた先に転がっていたのは、真っ白なシャツを真っ赤に染めた、みにくいみにくい怪物の姿でした。
みにくいみにくい怪物の顔は、けれども、にこにことうれしそうに笑っています。
夜を探しに出かけたその怪物の名は、ガヨと言いました。