キシキシぷらむ視界

だらだらと長いだけの日記と、ちょこちょこと創作メモのような何かがあるブログ。

確かに存在する「 」


反省している。
何についてかというと、もうこの自分という存在そのものについて全般的にもっともっと恥を知るべきだと思う。猛省しても足りないほどに、悔いるべきことがあまりに多すぎる。
あまり真面目な話をするのも私らしくないのでシンプルにまとめる。
しっかりしなければ。
これに尽きる。

と言っても私はとことん自分自身に甘いので、まあ、もうちょっとしっかりしなければ、というあたりに落ち着きたい。
忍者が毎日すこしずつ伸びる麻を地道に飛び越えることで脅威の跳躍力を得るように、バナナを徐々に凍らせていけばやがて釘をも打てる硬度をものにするように、一気に獲得するのではなく、泥臭い積み重ねに努めたい。
スロースターターにふさわしいスローペースと換言できるだろうか。どうだろうか。

私の考える「しっかりする」ということは、こういうこと。
ごはんはバランスよく、果物も含めて、おいしく頂く。
適当でもいいから毎日そうじをする。
洗濯物は都度たたんでしまう。
出したものはもとの場所にしまう。
生計の範囲を越えた出費を忌む。
どれも簡単なことだけど、どうしても出来ないときは、とりあえず寝る。それらをせずに何か大事なものごとを考えない。

結局、こまごまとしたことの集大成が1日ということになる。そこで振り返ったとき、昨日も今日もひたすら反省しかないようではちょっと明日を迂回したくなる。それでもいいのかもしれない。そういうこともあっていいのかもしれない。
でも私はこのパターンに飽きた。
というわけで、もうちょっとしっかりしたい。

とりあえず、この生活の基本に挑みつつ、連休中にやりたいこと。
部屋の片付け。棚の整理。こまめに食材の買い出しをして、常備菜を作る。
運動、せめて縄跳びを30分、ストレッチ、まあ、適度に。
とはいえ、こういうことを一度にやらず、休息時間や趣味も大切に。

ちょっとしっかりしよう。
ちょっとがんばろう。
何度めかもう分からないくらいこう言ってきたけれども、まだまだあきらめないでいよう。失敗しても大丈夫という安心感。これまでとは決定的な、この違いがあるのだから。


メリークリスマス。


現実世界が様々な意味において充実している方も、そこはかとない哀愁を感じているあなたも、昨日はただの12月25日でしたというかくも冷静なる諸氏も、みなみなさま、とにもかくにもメリー・クリスマス。

お察しのとおり、今年も寝正月を先取りしたクリスマスイブでした。
本日26日から軽く大掃除を始める予定。年内に多少はまともな環境にしておきたい。


今の私は、物理的にひとりで過ごすことにまったく寂しさを感じない。
普段から運が強く、縁に恵まれ、精神的に支えられている。十二分に幸せだからだ。
ただ、現状に満足するには少しばかり早すぎるのでは、と思い巡らせはする。
人間的成長がとまってしまうのではないか、と。
けれどそれとクリスマスに何の関係があるかと自問すれば単なる見栄のいびつな発露でしかないんだろうという結論に至る。
この愚にもつかぬ思索はもはや恒例行事と化している。次はバレンタインだろう。

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いちばんすきな色がきらきらするリングと、ししまるくん(命名)。クリスマスプレゼント。ぷらむの好みツボを非常にうまく押さえたチョイスに、飛び跳ねて喜んだ。また宝物が増えて私しあわせでございます。


限りなく透明に近いグリーンなデュラハン


道が、常にあなたの前にありますように。
風が、いつもあなたの背中を押してくれますように。
太陽が、あなたの顔を暖かく照らし、
雨が、あなたの畑に優しく降り注ぎますように。
そして、再び会う日まで、
神様が、そのてのひらで、
あなたを、優しく包んで下さいますように。

アイルランドの古い祝福の言葉らしい。
確かこれは、とあるSSで見つけた文句だったと思う。そう、あれは赤蛮奇、カップリングは……こほん。
なかなか美しい祈りだと思う。アイルランドらしい素朴さもあって、心地良い感じになる。

現代の日本ではあまり固有の宗教を持つ事は歓迎されない傾向にあると思う。それにはそれなりの理由があるのだし、文化の一つでさえあるのだろうから良いも悪いも無い。
だが、信仰を否定するのは頂けない、と言うのが私の信条だ。信仰とは必ずしも組織的な宗教とは結びついていない。日々の暮らしの大切な核をどこに置くかという事で、それは本当に人それぞれだ。その聖域はそう簡単には侵されないとしても、やはり攻撃されたら悲しい気持ちになる。

そんな事を何となく考え続けて来た結果として、どこの何者とも知れぬ神に向かって、今では私はこんな風に祈る。

あなたの存在を必要とする人々の祈りに合わせて祈ります。必要としている人のもとに、必要とされる希望と力がありますように。

我ながら逃げ道だらけの祈り方だと呆れてしまう。

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うさふわぴんくちゃん



ほんのりオンナノコな話。
先日購入したうさちゃんワッペンのふわふわアウター。店頭での手触りが天国だったので、お手当前なのに手にしてしまった。
で、今日、とても寒いと思ったので、いそいそと うさふわぴんくちゃん(命名)を取り出して袖を通した。同時に、感嘆の呟きを禁じ得なかった。

「しあわせ……!」

何と言うか、「こんなの、はじめて……」みたいな。うん。いや。それくらいの衝撃でありながら、本当に心地良い感触なのだ。
杜撰な洗濯で質感を損なわないように、大事にしようと誓った。

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2014年を振り返って


12月には、一年を振り返って記事を書く。それが私の日記における毎年の習慣。今年は早いけど、もう振り返ってもいいかな。

様々な事象に心動くことはあるけれど未だ記す術を知らない。何を書いてもぼんやりとした言葉しか出て来ないだろう。ならば、もう少しそれらについての言及からは逃げていたい。だから個人的なことだけを箇条書きしてみるとする。

手痛い言葉を貰いながらも自分なりのことをしまいぞと開き直った春。
自分は暑さにとことん弱いのだなと実感した夏。
階段を昇って籠もって捨てて捨てて選んで捨てて捨てることを選び続けようと決めた秋。
十年の先を決定しかねないターニングポイントを迎えた冬。

痛む頭。庭の木々に差す影の迷路。躊躇いを振り切った冷淡さ。焼ける喉。シトラスの苦味。静かな闇。遠くなった連絡先。見上げた霧雨。飽くなき欲望。言葉にならない絶望。往生際の悪い希望。再現しきれないスープ。出会って繋がって離れていくこと。開かれる視界。耳元でうなる風。伝う汗。隠されていた窓。大理石の床。千切れる糸、布。溢れるはなしことば、声。ぬくもり。オレンジの照明。淡く白い潤い。追憶、デジャヴ。あの頃は誰にも伝えなかった一言。

些細なことばかりが積み重なって今日の私がいる、という凡庸さ。

以前の私はいわば変身を求めていた。あまつさえそれが劇的であるように願ってさえいた。子どもが転校に憧れるような安易なやり口で、新しい自分を欲していたように思う。
今では変化があれば上等だと思っている。そして、それはゆっくりと、何年も何年ももったいないほどの時間をかけて起こることなのだろうと予感している。

しかし、まあ、ちょこちょこと変わるものもある。短絡的なものだから、結構しょっちゅう考えや感情が左右に揺れ動き、言動にどうも一貫性が無い。
スパーリングで人と向かい合うのが怖いと呟いた舌の根も乾かぬ内にそれを克服している。そう、乗り越えたのだ。素晴らしいじゃないか。

今年はもうこのブログは更新しないかな。たぶん。一足早いけど、来年もよろしくおねがいします。


ぷらむ



うさぎさん飼いたい病


第43次(適当)うさぎさん飼いたい病に罹患中。

うさぎ、飼いたい。うさぎを飼いたい。
ああもう、うさぎを飼いたいうさぎと暮らしたい。

と言う私はうさぎを飼ったことは無い。
だからこその憧れでもある。
うさぎ、良いなあ。良いだろうなあ。

ちなみに犬なら幼少期に飼っていたことがある。
佳祐という凡庸な名前に相応しくない程に賢く勇敢で、愛くるしいビーグルであった。
海外での生活を余儀なくして実家を出て以降会っていないが、佳祐との思い出は今でも鮮明にこの胸に蘇って来る。
犬も良い。犬も可愛い。
でも佳祐以上の犬はこの世のどこにも決して存在しまい。
だからという訳ではなくても、うさぎ。
ああ。うさぎ。待ち人はうさぎ。

上手く言えないので誤解を恐れず率直に書いてしまうが、今は恐らく、自分の思うがままにならないことをしたい時期なのだと思う。
現在では自分のことさえ考えていれば良い。実際、それで精一杯。
気ままでもあり、でも無責任という状態を持て余してもいて、どうにも具合が良くない。
だから、生き物を相手にしたい。
これはもう弁解のしよも無いエゴそのものだ。
が、実際に佳祐と過ごした日々を振り返れば、子どもなりに責任を感じて生活していたのも嘘ではない。
現状、一人暮らしでうさぎを飼ったら、それはとても大変なことになるだろうと容易に想像はつく。
うさぎと同居という生活だけでも、環境や意識の変化は絶大だろう。
そしてうさぎの為に割く時間、お金、体力、気力、その他もろもろ。
たとえ相性が悪くとも、気に入らないからと一個の命を簡単に放り出せる筈もない。
私が体調不良で寝込んでも、うさぎの世話を放棄する訳には行かない。
だが、あえてそういうことをしたい。
自分の持つ自由や情を何かに使いたい。
繰り返すが、本当に人間の、そして私のエゴなのだ。書けば書くほど痛感せざるを得ない。
それに付き合わされるうさぎは気の毒としか言い様がない。

まあ、今の住んでいる寮はペット禁止なので、今すぐにどうこうという事は出来やしない。
だから、とりあえず植物でも育ててみようかなあ、と考え中である。
これもやはり命だから、大事にしないとすぐに枯れて儚くなってしまう。
うさぎと植物では、いきものとして感じる確実さが随分異なるだろうが、それでも自分の意思で選んだひとつの命であることを重々承知して、右往左往したい。

3人で一部屋に住んでいるので、屋内の端に鉢を置くか、もしくは窓の柵に吊るすことになる。だとしたら、ともかく最初の一歩は部屋の簡単な配置替え。
以上の理由から、明日より整理整頓期間に入る予定。あくまで予定、つまり未定。
編み物もしたいしね。これは命ではないけれど、思うがままにならないという点では似ていると言えなくもない。やや苦しいが。


最近の


異様な眠気が毎週半ばに襲って来るので、それに対抗すべく策を練った。
まず、ドーパミンを出しまくる。ドーパミンについては未だその仕組みなどが完全には解明されていない様だが、とりあえず動けば分泌されるものらしい。
という訳で、お茶のティーパックがお湯をたゆたう間、軽くストレッチ。朝一番から右足の甲がつる。その痛みで眠気も吹っ飛ぼうというもの。
そして歌を歌った。自慢ではないが私は酷い音痴である。それでも歌は好きだ。だから歌った。鬱ソングとも言われる「アンインストール」を。
そして、お茶を飲みながら読む本(スマホでSS)は小難しい内容を避け、逆に抱腹絶倒なチョイスで行くことに。これは良い。我ながらこれは良い策だと思う。

最近の出来事といえば、ぱっつんと切ってある前髪が邪魔に思えてカチューシャを購入。
ああ、カチューシャ……!本当にファッションって巡るのね。またあなたに会えるなんて!
嬉々として着用する朝はまだ良い。昼頃からじわじわと痛くなってくる。何故かと言ったら、眼鏡も掛けているからである。これはもう疑い様も無い。

日常生活で眼鏡を外す時と言ったら、読書する時、携帯を弄る時、編み物など趣味の手仕事をする時、入浴時、ストレッチタイム、寝る時、ぐらいだろうか?
……何だか晩年の様だ。いや!本と眼鏡はワンセットだからそんな筈はない!(偏見と趣味)
まあ、そういう訳だから、それ以外で物事に集中していない間は慢性的に痛い。類を問わず作業に没頭していれば痛みを感じていても気にはならない。
さてどうしたものか。
カチューシャ、可愛いしなあ。
どちらかを選ぶのは難しいなあ。
…しかし私は苦悶した末、試行錯誤の道を行き、どうにかこうにか痛覚を刺激しないカチューシャと眼鏡の両立法を体得した。ちょっとカチューシャを斜め向きに着ける。そして眼鏡を掛ける。カチューシャの先端と眼鏡の間に隙間が出来る様に調節する。
以上。

要するに、耳の裏の骨に何も当たらなければ痛くない。
ただしカチューシャがずれるとたちまち苦痛が襲って来るので、ピンで留めるのも忘れてはならない。

お洒落とは難儀なものだなあ。多かれ少なかれ手間を取るもの。それを惜しまず慈しむべきもの。そういえば恋に似ている。と言ってみたかっただけ。

ちなみにカチュームはどうしても偏頭痛とは異なる頭痛を誘発するのでパス。そうでなくても今の髪の長さからしてカチュームは選択肢に未だ入れられないものと思われる。
それにしても「カチューム」なんて名称、最初に考案したのは一体どちらのどなた様なのだろう。天才です。案外はじまりはダジャレだったのだとしても。
昔はヘアバンドと言っていたはず。「ヘアバンドの、ほら、あの、ゴムの方ね(カチューシャと区別する為の苦肉の策ともなり得るフォロー)」などというまどろっこしい物言いは珍しくなかった。私だけでしょうか、いいえ、誰でも。






今年はどうもバイオリズムがおかしい気がする。
秋から冬にかけてはゆっくりと料理をしたくなるのに、現在のところ、そうした余裕があったら他に回したい。時間が足りない訳ではないし、むしろ余るほどあるはずなのに何くれとなくもったいない、惜しいと感じる。
静的にも動的にも落ち着かない。おかげで極端に動き回ったり寝込んだりでまた一層生活が上手くまわらない。
秋冬というより、初夏の面持ち。

気候が影響しているのかなあ。それともやはりアレか。年なのか。老いが嫌だとは思わないが、こういうざわついた変化を感じると流石にちょっとは不快にもなる。

今日は祭事か何かで、近隣の方々からお酒をたくさんいただいた。ごちそうさまです助かります。


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うさぎ萌え



ああ、眠い。眠いのです。またも睡魔に日々駆り立てられる期間が来たのでしょうか。実は、と言う程のことでもないが、ここ数日ちょっとした棘のようなものがこう、心と脳の間に引っ掛る事が。思わず「らめ」と静かに呟いてしまうような。

分かった。眠いのは、明日のやけ酒を先取りして身体が休息を求めているのだな。マイボディめ、愛い奴よ。昼間のぼっちスクワット地獄も効いているのだろうな。この気が遠くなる様な脱力感、抗う理由など何ひとつとして認められぬ。

そういえば、まだ、うさぎ萌えの話をしていなかったね。
うさぎが好きだ好きだとは言ってはいるものの、飼育する気は微塵もない。はずだった。それがある日、某SNSのコラムを読んで萌えたぎった結果、生涯のパートナーにするのも悪くはないとあっさり宗旨変えしてしまった。


コラムの内容は以下の如く。

ウサギさんは犬や猫に比べると、なつくまで結構時間がかかります。
近寄ると逃げます。
あちらからぴょんぴょん来るまでは、離れた所でじっとしていましょう。
ぴょんぴょん来たら、ウサギさんも少し安心し始めている証拠です。
ひくひくと鼻を動かして匂いを嗅ぐ仕草を見せたら、初めてなでなでしてあげましょう。
ただし、ここで抱き上げてはいけません。怯えたウサギさんは、また逃げてしまいます。
これを繰り返して、そろそろ大丈夫かなと思ったら、「いいこだねえ」などと言いながら頭からお尻までなでなでしてあげて下さい。
こうしている内にウサギさんはあなたを信頼し、なつくようになります。
そうなったら、ウサギさんの方からあなたの膝に乗る様になります。
膝に乗ったウサギさんが鼻でちょんちょんして来たら、それは愛情を確認したいというサインです。


あえて言おう。
なにこのかわいい生き物。

普通に言おう。
何この可愛い生き物!!!


卑怯だろう、うさぎさん!策士なの?天然なの?萌える!これは萌える!どうしよう!

萌えポイントをまとめると、
・かなり人見知り
・でもぴょんぴょん来る
・撫でて貰うのが好きらしい
・デレると膝に乗る
・鼻でちょんちょんして愛情確認

ぴょんぴょん。
膝。
そして鼻。

ああ!可愛い!うさぎさん可愛い!
もう言葉になりません。文章でこの萌えるこころを表せません。これもクオリアか?誰とも正確には分かち合えないときめき、私自身でさえ恐らくコラム初読の時の急激な萌えをどうしても再現できやしない、だけど一秒ごとに増す愛しさを込めて声高に主張したい。うさぎさんは、最強に可愛いのだと!

うさぎさんと一緒に暮らしてみたい。
ちょっと翻弄されたい。
ついうっかり不用意に近付いて、耳をびくっ(ぴくっでも可)とさせたうさぎさんがぴょんぴょこ逃げて行く姿にショックを受けたい。
私はマゾヒストではない。と思いたい。けど、うさぎさんになら、私……

とは言え、将来一人暮らしなんかを始めていざアパートで動物を飼っても良しなどというお達しが出たら、やはり猫を選ぶと思う。ごめんなさい、うさぎさん。あなたは言わば高嶺の鼻、いや、花なの。

自分、いつにも増して大丈夫か やや危ぶまれますな。ある意味たぎっているのには違いないですが、なあ……。あ、心配には及ばんよですよ。かたじけのうござる、です。なあ。

画像は愛しのるびぃちゃん。

萌え。それはどこに隠れているか分からない活力の泉。地図にもない、衛星写真にもない、どこにも見当たらない萌え。一例として、るびぃちゃんといる時は、確かに熱く揺れている。ちょんちょんと。

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嘘なら優しく



中学校の頃に夢中になった本を無料WEB書籍で見つけ、再読している。
あの頃は小説家になりたかった。だからこの本もお手本だった。それまでに読んだ物語にはなかった描写の数々にいちいち圧倒された。
いつか、こんなふうにことばを操ることが出来るようになったら、きっと小説を世に出せるはず。そう信じていたし、願っていた。幼ながら自分なりに努力もしていたと思う。
本だけでは足りなくて、映画やアニメ、漫画など、視界に入る動きのすべてを頭の中で文章にしようと集中していた。しかしどうしても語彙が足りなくて、結局のところ、文字の媒体に戻ることの繰り返し。

今、その文体を、表現を、あの頃の自分自身を懐かしみながら、同時に現在の自分を振り返る。見つめ直すのではなく、かえりみている。
あれから10年ほど経った。しかし私は未だにこれほど想像力を刺激するような文章は書けない。そうする為に必要な情熱ももう無いし、こうなりたいとも特別に強くは望まない。

過去の私にとっての未来は、もっともっと順調で、充実していて、可能性は現実のものになり、毎日ひとつは何かを成し遂げているような、そんな輝きに包まれていた。
現在の私にとって、人生はまだまだ先が長い。それはもう、心底から辟易するほど。反面、いつ死んでしまっても不思議ではない厳しさや不条理を受け入れつつある。まだ伸び悩んでいる、などと言うと笑われてしまうのだろうな。
もはや職業として何かになるということは問題ではなく、どこで芯を通すかが大事になってきている。そしてそこで躓いている。もしも私が表現者になっていたなら、生きることは更に過酷になっていただろう。あるいは、もう生きてはいないだろう。肉体的にも、精神的にも。

書籍や音楽を通しての過去との再会は、どうにも気恥ずかしく、甘酸っぱく、苦々しい。でもあのころの自分が馬鹿だったとは思わない。今のほうがよほど愚かだ。

未来の私も、そう断言してくれると良いな。

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