秋の夜長のひとりごと
すかいぷ女子会議
というのも友人その1が結婚という華々しい予定を立てつつあるからだ。
ちなみに友人2は既婚者。その3である私はその手のことは全く微塵も気配すら無い。
しかし、何だかんだと人生の大半を友人として過ごしている。少なくとも私にとっては義務教育時代の拙いぶつかり合いを経てなお繋がっていられる、貴重な存在である。
各自の距離の取り方が絶妙なのか、この3人の間に何か奇跡的な相互作用が働いている結果か、未だ解りかねる。
が、きっとものごとを見逃す目が似ているのだろう。そんな気がする。
許すかわりに、見逃す。これは人の知恵の限界でもあるのではないだろうか。
別に何か大それたことを言うつもりは更々ないが、それぞれ天性の適温で関わることが出来る縁という運にやはり感謝したい。
ちなみに友人1曰く、我々の血液型だと相性はばっちりなのだそうだ。
私、あなたたちの血液型を知らなかったよ……すみませんすみません。
緩やかな死
いや、アレだ。まあ自覚はしてたが…
「 デブは存在がマナー違反 」ってお言葉を頂戴した。私、こう見えて性別は女である。
今流行りの断捨離を特集した雑誌を見ながら気持ちの整理メモなるものを書いたり、散々プラスに考えようとした。
「この先生と生徒たちはワタシの醜さを自覚させて改善させてくれようとしたのではないか」だとか、な。
まあどっちにしろ余計なお世話だが。
その場では笑ってスルーした。しかしそれが気に食わなかったのかその後逆ギレなるものに合い口聞いてもらえなくなってしまう現状。一体どうすればよかったというのだ!
謝っていれば何か変わっていたのだろうか…。
立場というものがあるから引きこもることも出来ないし、食事にも顔出さないといけないし、お目汚ししてしまって大変申し訳ない気持ちでいっぱいだが、存在を消せってのは無理な話なのだ。
もうご飯は食べない。そもそも食欲すらわかないから問題無い。ごはんの時間はしょうがないのでソンパック(漬物)をもぐもぐして、飲み込まずに出す。食欲がわいたら卵を一日一つ。一応これで5キロ体重が落ちた。目標まであと11キロ…気が遠くなりそうだ。
女子として見られたいわけではないからあまり参考にならないが、今の自分の体重、容姿では周りの人の目を汚してしまうらしくヒトとして生活出来ないらしい。とても世知辛い。(これでも身長から割り出した平均体重程度なのだが……)
いつだってそうだ。柔道をやめてからずっとそう。取り柄がなくなって、存在自体を否定されることが多くなった。妹達は柔道で成績を残さなくても暴力振るわれなかったのに。毒親が言っていた。
「○○家は軍隊と同じだ」
「サーカスの動物と同じで口で言ってわからなかったら暴力でねじ伏せるまでだ」
だからまあ私だけ生まれ落ちたその時から家族として取り合ってもらえてなかった訳で。柔道をやめて人を喜ばせる家畜からただの家畜に成り下がっただけな訳で。今更へこたれることはないけど、ラオスで他人から見て未だ存在意義のない自分が悪い。醜く太っている自分が悪い。全部私が悪いのだと思うと正直きついものがある。
もう一人の先生とえりさんはこんな私をヒトとして認識してくれているから、心の支えである。ありがたい。
本当にありがたい。
そして彼女は咽び泣く
ぐるぐる
するとどういうわけか今までの苛立ちや不快感がすとん、と部屋中に漂う悪臭の中に無色になって溶け堕ちて消えた。
てくてく
これを回避するには、足全体をおおわないデザインを選ぶしかない。すなわちサボ、ほぼこの一択となる。予備の候補とビーチサンダルなどが挙げられるものの、これはこれで親指と人差し指の隙間を痛めつけるのだからもうどうしようもない。
私ったらまるでバレリーナのようだわと陶酔できるのならばいっそ本懐というもの。爪先とかかとの違いなど些末な問題である。
しかし、できればやはり快適に、軽やかに歩きたい。
あたかも裸足の如き心地までは求めていない。ただ、購入前後からの不安、そしてまぎれもない肉体的苦痛の軽減と緩和を切望しているだけだ。私は断じてマゾヒストではない。
中にはいつまで経っても優しくならない靴もある。
どうしても相性があわないものは、如何なる場面でも出てくるものだ。極限まで無理などしようとせず、潔く別れを告げる以外に術はない。
気に入ったのになあ、高かったのになあ、と名残惜しさは尽きないけれど、いつまでも痛みに付き合っているわけにもいかない。
ひとりで黙々と作業をすることが好きという傾向は恐らく一生続くだろう。しかし、口出しをされる方が結果的には栄養になる。では、どうやったら批判や忠告を得られるか。
これはもう人前にものなり何なりをどんどん出していくしかない。
そのためだけにまずはひとつ、自分で絶対的に良しと言えるところまで完成させる。
少なくとも、最初のうちはそうしないと自己満足にしかならない。趣味だからそれで良いという考えもある。私もそのうちの一人だ。
ただ、ものをつくりあげる基礎のようなもの、それに向かう努力や継続する強さなくして、はたして自分なりの納得すらありえるものなのかと、だんだんに疑問に思い始めている。
つまり、最低限の準備を整え、始末をつけるまではやろうということ。途中の失敗は仕方がない。この際、完成度もどうでもいい。とにかく一通り、はじめから終わりまでの地道な過程をないがしろにしないこと。
今までそこそこ輪郭が見えてきた気がしたら急に思いつきのままに省略したり足したりして、結局さして何にもならず放り出すことがあまりに多すぎた。常に次に目移りしていて集中力も途切れがち。
忠実にひとつ完成させれば、次に生かせるものが必ずある。
しかし、決して近道ではないだろう。
基礎こそ神髄として決して疎かにできるはずがなかったのだ。
きちんと型にはまってみないと、あるか無きかの自分らしさとの差異など、はかりようもない。
上記したことのほとんどは今手直ししてる創作小説の話。
何にしろ、うまくやるより喜んでいたい。研鑽と両立できれば願ったり叶ったり。
新しい靴のいたみと共に歩むからには、外に出ないわけにはいかない。久々に息抜きがてら、カメラを持って散歩でもしようかな。